道元の伝記映画『禅』を見る

月曜日にシネコンで『禅』という今公開中の映画を見た。道元の生涯を映画化したものであるが、道元正法眼蔵には以前から興味があったので見てみた。といっても僕は道元についての初心者である。特に何を知っているというわけでもなく、禅についての漠然としたイメージがあるだけなのだが。映画の出来については特に言うべきこともないが、道元についてほぼ通俗的で入門的な解釈を説明している映画である、それがどんな生涯を送った人だったのかを、ざっと通観することはできた。

道元の究明した幾つかの概念が面白いのだ。有名なものでは、「只管打坐」とか「身心脱落」といったものがある。ただひたすら座禅することをもって只管打坐といい、そこで目的とされるものとは「修証一等」の境地である。即ち、修行することと悟ることとは別のものではなくそれ自体で一つなのだという境地にまでなることである。(過程への生成同一。)只管打坐による精神統一が到来しているとき、そこに身心脱落が起きるという。身体からも心からも超越的に瞑想しているある状態に至るというのだ。

鎌倉時代の禅僧である道元の教えは、曹洞宗として教団化しそして今に続いている。しかし道元の唱えたこのコンセプトとは、明らかに攻撃を受けやすいものだ。身心脱落などの観念は、特にマルクス主義からの攻撃を受けやすい。この教えが教団化されて通俗化されるとき、非常に堕落しやすい陥穽は問題点として多く備えているし、実際曹洞宗の教えとは殆どが形骸化され通俗化されたものとして今まで続いている。

身体や物質から人はどうやって自由になれるというのか?ただ座禅を組んでいるだけで悟りから救済が訪れるなんていう考え方は、究極の観念論であり、逃避的な志向なのではないかとの、ドグマチックな批難は、マルクス主義の立場からは簡単に投ずることができる。また実際そのように言われて、道元の教典は批難されてきたし、曹洞宗も攻撃を受けてきた。そして「実践的」な唯物論を唱える人々からそのように云われることは、曹洞宗の現実にとっては殆どがあてはまっている非難でもある。只管打坐や身心脱落による瞑想主義とは、究極のアヘン的思考ではないのかということだ。

しかし道元は、もともとあった身体論的思考を批判するために身心脱落という考えを唱えたのだ。身体論、身体主義によって見落とされているところの思考を救い出すために、身心脱落を提示した。今ある身体論的な思考と呼ばれているものとは、その原型を紐解いていけば何のことはない、人類史の思考にとって古くからあるものであり、実はそれ自体も固着したものの考え方として、歴史的な社会には通常見られる、それ自体は凡庸な物謂いである。単純に云えば、精神論を逆転すると身体論のサイクルになる。宗教的な意味の精神の神格化の次は、身体、肉体の神格化が来る。社会史的に身体論とは常に元々あったもので、社会にとって特に目新しい啓蒙的な価値をもつものでもない。それがよく啓蒙的な顔つきをしたがる主義であるという傾向は、いつの時代にも見られたとしても。道元の場合はこれとは違い、精神的な傾向も身体的な傾向も両方をカッコに入れて見ることによって認識の正確さを持とうとするものである。

道元の思考とは、存在論の思考に近いのだ。道元正法眼蔵ハイデガーが読んで驚いたという話もあるが、道元にとって、あるものをあるがままにみる、という思考とは、身体的な傾向性を更に乗り越えるところに見出されるものである。これはハイデガーの考えていた存在論に等しいのだ。ハイデガーにしても、身体論、主体論、唯物論といったものを批判することが存在論の動機になっている。

身体と心性によって生じている傾向性を限りなく還元し排していった先に、ただそこに実際にあるものをあるがままに捉える、悟りあるいは認識とは、このあるがままを捉えることそのものによってもたらされる。あるものをあるがままに捉えられるのなら同時にそこで何をすべきなのかという方向も自発的に選択される。これは決して観念的な拘泥ではなくて、認識あるいは物事の理解によってのみ、即自発的な自己の針路も開かれうるという意味で、そう瞑想し修行し掴み取ること自体が、もっとも正確な、そして唯一の、実践の姿なのだ。

あるものをあるがままに捉えるためには、一回身心脱落の過程が必要である。これはハイデガーでいえば、存在を見るための現存在を見極めていくことにはヒューマニズムという人間の形象を超え出ているところがあり、またそれを超え出たところで現存在の投げ出された姿を見なければならないということになる。これは身体的な再主体化といったものとは決定的に異なる。

例えば、サルトルは、存在と現存在の関係について、それをヒューマニズムに解消できると考えているが、そのような存在論は誤りであると、ハイデガー自身によって批判された。人間を見るためには、人間の形象をはみ出ているところの非人間的な形象として現存在を見なければならない、また存在を見るということはそれを再び人間の形象に回収しようとすることとは違うのだ。時代における人間の形が根拠となって、様々な現存在とは社会的に投げ出されているのを見ることができるが、それらは本来人間の形をはみ出た畸形のようなものとして現実には投げ出されているのだし、人間の形を見ることとはそれらを再び人間の形に回収しようとすることとは違うのだ。この人間をはみ出た非人間的なものの現実的な被投態というのは、今の言葉で言えば「動物的」ということにあたる。「身心脱落」によって最初にこの動物的な存在の実相を人間から観照することを提示したのは、道元だったということである。

道元の体系化していた思考とは貴重なものである。特に禅の目的というのは、それを道元が仏教の正法と呼んだように、単に認識ではなくて自らの苦しみを超え出ることにある。今で言えば、精神疾患的なものに対峙して自分でそれを乗り越えるための方法論的な目録が、道元の思考の中にはあるのである。座禅はそれ自体で一つの身体修業になっている。特に、只管打坐の中で、自らに見出されるべきものとは、呼吸の動きを正確に取り戻すことなのである。

呼吸の仕方を変えてそれを正確に持てたとき、おそらく主体は今ある心の疾患を取り除くことができる。あるいは苦境の状態を認識によって配置として捉えることによって、そこに耐えうるポジションを得る。呼吸の細やかな一つ一つの波というのは、存在論的にいえば、存在の開閉ということにあたっている。存在はその現存在の投げ出された形を通じて、世界=現実と通路を持ち、それは呼吸の律動のように開閉を静かに繰り返している。そこには現存在の包まった襞のようなものが与えられているし、それは本来とても人間の理念的な形はしていない。むしろ理念的な物の陰画の様な形でそれは常に生息している。

座禅における呼吸法とは、丹田という呼吸のツボにあたる点を見定めることによって具体的に決まってくる。この丹田とは、腹の上にあるときもあり、臍の下にあるときもあり、時宜によって移動を繰り返すものである。丹田をどこに置きうるのかを発見することによって、人は呼吸の仕方を整えることができる。

現存在とは、呼吸の律動に合わせて、それ自体が呼吸をしている、一つの生き物のような襞の実在である。それは身心的な脱落の瞑想的境地によって見出される。存在の呼吸する開閉とは、それ自体が、の運動(いないいないばあの遊び)である。只管打坐から身心脱落によって、この呼吸する存在の襞を発見することが、自己にとっての治療であり、そこを観照し掴み直す事によって悟りとはある。