女子高生とスカートの長さ

女子高生のスカートとは現象としていつからか短くなっていった。先日、日本でそれの統計を取ってみたところ、新潟県が女子高生のスカート丈では一番短いという結果が発表された。なぜ新潟なのだろうか?それに比べて首都圏というのは、スカートの短さにおいては平均的だという。あんまり田舎過ぎても、女子高生の間でスカート丈を短くする競争は起きないだろうが、どうやら何かが中途半端な位置にあるような都市で、そういった女子間の競争が発生する模様である。

この現象をどう分析して見ることができるだろうか。大都市というのはそういうところで特に見えの張り合いというか競争の発する意味はない。そして女子の競争のように見えるが、個々人の見得の張り合いから家の見得の張り合いといったものまで、そこでは女子というよりもっと大きな共同体的な人々の結合の仕方に、この自然発生的な競争の根拠があるのだろうかとは、考えて見たくなるものだ。

例えば日本で結婚式の儀式を派手にやる地域として有名なのは、まず名古屋の文化だろう。こういう現象は別に個々の家の問題ではありえず、周りの家が派手にやるのだからうちも派手にやらずにはいられないという連鎖の輪の中で起きているわけであって、地域の史的な構造の問題に関わる。家という単位が元来強固に機能していてそれが残ってる地域にこの現象はあるはずだ。しかし家の単位が強固であってもそれが家同士の競争の意識から、この同じ競争に参列することによってこそ地域的な連帯を生むという地縁意識にまで根が深いわけだ。

東京や大阪の地域であれば、巨大都市圏の構造として、家の単位というのは常に解体されざるえない住人の入れ替えや余所者の絶え間ない流入というのは大きいわけで、家の意識と家同士の競争的連帯というのは、そのような場所には構造的に根付けるわけがない。名古屋のような中途半端な都会と田舎の入り混じった地域であれば、家の地縁的な意識というのが、そのまま脅かされないで古くから伝統的に居残れるという構造はあるのだろう。しかもそれが中途半端に都会的なものに隣接してるが故に、都会的なものの宿命としての競争的自意識というのにも晒されていて伝染しやすい。

女子高生のスカート競争でトップに立った新潟地区もまさにこの条件は充たしている。古くからの家族関係がそのまま今でも比較的残っていて、適当に個々人の競争を煽る様な都市的環境に接してもいる。これが空襲を受けて丸焼けになったような地域なら、戦争の時に地域が丸ごと焼け野原から生まれ変わるような入れ替えを受けているわけだから、地縁的な競合意識というのもそのとき丸々焼失しているわけである。名古屋も決して空襲は受けなかった地域ではないが、それにしても名古屋の場合は中途半端がすぎたのだろうか。歴史的な地域の背負った田舎性も根こそぎにはならずに適当に持続したのだ。

そして、派手好きが流行る文化というのは、地域にとってどんな意味があるのだうか。東京は特に派手好き文化が強いというわけではない。華やかさにおいて日本では東京の一人勝ちという状態にあるのは明らかだが、特にそこに住む人々というのは、必ずしも派手さに拘って生きているわけでないのだろうし、また派手に拘らなくても充分潤ってるような豊かさを自ずから身に着けているのだろうし。東京のファッションというのはむしろ合理主義的なスタイルである。

派手好き文化というのも、何かの原的なコンプレックスが原動力としてないと生じない文化であるはずだ。名古屋の文化も派手好きで、名古屋城のイメージの金のシャチホコのように、金ピカ好きの趣味傾向があるようだが、派手派手しさのどぎつい文化といえば、やっぱり日本では大阪である。ファッションでいえば、豹柄系が一番多そうなのも大阪の繁華街っぽい感じがある。どうやら名古屋も大阪も、女子高生のスカート丈においては平均的なようだが、女子高生において見得の競争が起きるということは、単なる派手好き文化の問題でもないのだ。それは家族間の競合に根を持つ共同体的意識のスタイルなのだから。つまり彼女たちは競争しながらも意識としては大きな同じ共同体に属していて(スカートがお洒落な共同体)、かつそこに支配されながら楽しんでいるのだ。明らかにこれは趣味の共同体的な享楽の構造に属している。

それでは女の子のスカート丈のように、人目を引くための競争、見得の張り合いが強い地域では、処女と童貞の喪失率、初体験の率というのも、やっぱり若いのだろうか?ここはどうなのだろう。たぶん新潟では、結婚については女子は割と時期が早いのではないだろうか。20代の前半から後半で女子は結婚する率は高そうである。女子高生がスカートの丈を激しく競う地域では、結婚の年齢も早目でありそうだが、それは要するに人は早くから家族に縛られるようになるということを意味する。結果として、また再びそれで家族の意識によって、地域の生活から結びつきが回るような構造は、繰り返されるということになるのだろう。婚期が早ければまた子供も早く生まれる。そしてその子供が十数年たつと、自分の色気の競争的な表出に気を揉むようになる。

スカートの丈の競争というのは、現象としてはなんとも奇妙な現象である。まず他人の目を意識しなければ絶対に成立しない競争であるし、異性の目だけではなく何よりもその競争には同性の目と判断と評判こそが深く機能しているのだから。しかしこの奇妙さこそが、我々の生きている社会の奇妙さをもっとも端的に表象しているのである。

ちなみに昔は、80年代頃の文化であるが、女子のスカートは長くする文化があった。いわゆるスケバン文化である。あの頃のスカートの長さというのもやっぱり競争意識が前提になっていたわけであるが、スカートを長くして逆に隠す部分を多くするのを美とする文化というのも、何なのだろうという気がする。足はスカートを長くして隠し、顔はマスクで覆って隠す。髪はパーマをかけてやっぱり顔はどちらかといえば髪に深く埋めて隠していた。それもつい最近の80年代の学校文化である。隠すことの美意識というのは、イスラムの女性が巻いてる黒いスカーフとかもあるが、日本のスケバンからツッパリ系の場合、共有する根を持つのは、新左翼セクトがデモでヘルメットとマスクとサングラスで顔を隠すあのスタイルである。あれはやっぱり自分を隠すことによって何かかっこつけてるわけだ。(少なくとも当人達はそう思ってる可能性は高い。)

原理主義的なイスラムの文化から、日本の80年代文化にあたるスケバンスタイル、そして不良系の前提にある新左翼スタイルまで、ここには何か共通する心性の構造を見出すことはきっと出来るはずだ。(70年代に日本の暴走族は、集会とかゲバ棒とかマスクまで、スタイルにおいてそのまんま新左翼から多くを取ってきている。殆ど論理的な脈絡はないにしても、反抗と反権力、攻撃、武装のスタイルにおいて暴走族文化はそのまま新左翼文化から明らかに影響を受けていて繋がっている。)しかし、こういった極端に隠すことを極まった美意識として表出するスタイルよりも、露出の過激さによって隣と競うという文化のほうが、文化的な健全さ、豊かさとしては、まだよいのではないかという気がするのだが。もっとも僕の個人的見解だが。隠蔽系より露出系のほうが、人間の文化的健全度としては、後者のほうが高いような気がするのだが。どうなんだろう。