映画を独り占めした初体験

そういえば月曜の夜にレイトショーを見たとき客席には観客が僕一人しかいなかった。夜9時からの上映で映画の内容は決して明朗とはいえないものだった。近所のシネコンだが僕はとても重宝している。ICチップの入った薄っぺらい会員カードを作っているのだが月曜は会員割引で千円ぽっきりで見れた。千円でシネコンの一部屋丸々独占である。なんということか。映画を見るべく館内に客が一人だったとは人生でもはじめての体験である。

レイトショーの割引はよく利用しているのだが、いつもその時間には混んだことがない。滅多にない。唯一例外は松本人志の映画を初日に見たときだけだったか。客が二、三人だったということは今までもしょっちゅうだが、さすがにそれが一人だけというのははじめてであり、なかなか感極まるものがあった。でも僕しかそこにいないと意識したのは映画がはじまって最初の数分ぐらいのことで映画の内容に気分が入っていけばそんなことは所詮どうでもよく自分だけの特権意識はすぐにも消えうせた。映画館内を一人で独占しうるということは別にそんなに意味のある体験ではないことが結果としては分かった。

貸切で使える映画館というのも都内などにはあるみたいだが幾らくらい料金がかかるのだろうか。数万単位とかそれ以上かかるんだろうが別に特に贅沢した気分にもならないと思うんだがな。これはたぶん横にワインとかチーズとかお姉ちゃんとか付いたらもっと気持ちよくなれるだろうかということもあるかもしれんが、所詮目的は映画を鑑賞することだと考えればそんなの特に意味のある体験だと思えないし。意味のある体験でなければ得したという気分にもなれないのではないかと思うが、特別贅沢を欲しがる人の気分というのは、多分そういった意味とか損得計算とかから限りなく遠い、世俗なんてどうでもよい逝っちゃってる意識まで到達したいから、贅沢の対象に投資するわけで、贅沢とは金額的な数値計算自体を捨てにすることによって気分よしとするものなのだろうから、貸切にあえて金を払う人は全然動機が違うところにあるのだろう。こっちの想像の及ぶ範囲ではないところ。僕にとって映画館に一人だけという体験とは何らその意味を実感できないみたい。

問題はこんなのでもシネコン屋さんのほうが営業を続けていられるのかということである。うちの近所の地勢からいえばここにショッピングセンターの付属としてシネコンが付いてることは便利であり重宝しているので是非とも頑張ってほしいものである。これからも。せっかくのこの場所が決してなくなってしまわないように。ショッピングセンターとペアになってるから映画館のほうでもこの経営形態が続けていられる。たとえ赤字が出たとしても存在自体がショッピングセンターの宣伝というだけの意味でも別によいのだから、ただシネコンとはそこに付いているというだけでよいのだ。そこにそれがあるだけで充分存在意義を果たしてる。夜遅くまで割引で営業してるとはサービス精神に絞って捧げられたものである。でもそれでも有り難がってる人が確実にいるんだろうとは思われね。僕みたいに。

シネコンの発明というのは出るべくして出てきたが合理主義の極みでもありすごいもんだなと改めて思う。シネコンの起源はやっぱりアメリカ人の生活形態にあるのだろうが今では日本でも人の文化的生活に微妙な影響を与えている。郊外に住んでることの楽しみというのは敢えて言えばこういう施設との出会いみたいなところにある。郊外的生活の面白さとはそこで微妙なる資本主義の速度を見つけてちょっとばかり知恵を使って争ってみて自分のほうに得を出してやることだろうか。郊外ののんびりとした時間に夜の閑散としたシネコンの風景とは微妙な快楽と化しているのだ。郊外の徘徊における隠れた密かな快楽の場所。レイトショーにモーニングタイムに割引の時間帯。