レボリューショナリーロードからトウキョウソナタへ

昨夜近所のシネコンで『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』を見てくる。レイトである。

ディカプリオとケイト・ウィンスレットが夫婦役で共演している映画で、サム・メンデス監督である。サム・メンデスの映画を見たのはこれがはじめてだ。名前は何となく聞いていたが、正確には以前『アメリカン・ビューティー』というアカデミー賞でいい所までいった映画を借りてきて見ていて途中でやめてしまったという経緯があった。だから最後まで見たこの監督の映画はこれがはじめて。どちらもファミリーロマンス・・・家族小説、家族的空想、家族的理想、といったものを元手にして映像化し、日常生活の家族的な細部を淡々と描きながらも微妙な綾からそこに潜んでいる狂気に至るラインを時間的にうまく炙り出していくといった映画だ。映画としてもドラマとしてもある種伝統的な手法の上にある表現の系譜だ。

日本の映画やテレビドラマでも家族物というのは手法として定着しているが、アメリカのファミリーロマンスにはやはりアメリカならではの伝統的なラインがそこにあるのはわかっている。映画でもドラマでも日常的によくかかっているが、我々が目にするときそれが白人の夫婦であり白人の家庭生活であるようなテーマのものが多い、少なくとも今までは多かったようには思われる。もちろん黒人の家族でも、あるいは人種混合の家族でもスタイルとしての文学的表現とは考えられるはずであるが、アメリカでも日本でも結局、家族を描くというときそれが平均的な中産階級の家族として題材として選択されることがどうやら多いのであり、平均的中産階級というとき、これまでの20世紀的なアメリカを見たとき、白人家庭という場所においたものが描きやすかった、作りやすかったということはあるのだろう。

サムメンデス監督の『レボリューショナリーロード』では50年代に一般化していた郊外に家を持つ白人中産階級が舞台になっていて、ちょっとレトロな感じもする設定だが、今あるような中産階級のイメージが最初にスタイルとして確定されたのが、アメリカの50年代の白人階級に起こった出来事であり、中産階級的なものの存在論として起源を紐解いていくとき、そこの舞台設定が一番分かりやすかったのではないかという気もする。

『レボリューショナリーロード』の場合、結論から言えば中産階級になりきれなかった家庭の悲劇が描かれている。しかしサムメンデスの場合、何故これを悲劇として描き出さなければならなっかったのかということには少々疑問が残るものなのだ。原作の小説が悲劇だったからやっぱり悲劇にしたかったのか。しかし、社会的な安定の獲得されるラインが中産階級への同一化というところに設定されているという社会構造の必然性があるというのは、止むを得ない現実でありそれが社会における全体性を安定させる為の機構なのだということはわかる。この殻を破れる通路を一般的な解法として示すようなことは難しい。必然性がわかっても、しかしそこで結果として、余りに分かりやすい、過剰なものを処理し切れなかった奥さんの自滅という形で、映画を締めくくる手法というのも、悲劇にしては余りに容易いと思うのだ。この映画がオスカーの候補にも上がっているという話も聞くが、こんなのがオスカー取ったら、幾らなんでもアメリカ映画、低迷しすぎで出口なしなんじゃないの?と逆に疑うよ、というのが僕の感想なのだ。

確かに中産階級に舞台が多く取られる家族物というのは奥が深く、どこの国でもそれぞれ独自の味わいある世界像の系譜が出来上がっている。日本なら過去の小津安二郎作品をはじめ、映画の世界からテレビドラマに反映されることによって、ファミリープロットの生産がまた別の位相で簡略化して展開したこととか、フランスのファミリープロットでも、イギリスのファミリープロットでも、それぞれのお国柄を反映した陰翳深いものが見出されるはずだ。もちろんアメリカのそれにも偉大な伝統がある。しかしメンデスの今回の映画に比べれば、日本の家族物というのはやはり何という豊かで優れた題材が転がっているのだろうと思わざるえないのだ。2008年度に日本の中産階級的なファミリープロットを扱った秀作として、黒沢清の『トウキョウソナタ』があげられる。これと比べれば、サムメンデスの切り口の甘さというか、まだまだアメリカでは家族の謎に取り組むための切り口が、なんと抽象的で浮き足だっていて甘いのだろうとしか思えないような現状である。アメリカのファミリープロットはこんなに甘いものだったのか、それか現在のアメリカ映画の状況というのが単に退行的になってるだけではないのかと言いたくなる。

家族の病を一番敏感に引き受けるのは、『レボリューショナリーロード』でも『トウキョウソナタ』でも、主婦の存在である。『レボリューショナリーロード』では崩壊していく主婦の像をケイト・ウィンスレットが演じており、『トウキョウソナタ』では時代の病的な鬱の相をセンチメンタルに反映させている主婦を小泉今日子が演じているのだ。ケイト・ウィンスレットは少し前の『エターナルサンシャイン』では素晴らしい演技力で魅了したものだったが、今回の映画では味が全然出ていないと思うのだ。(僕は映画を見ている間についぞこれがあのエターナルサンシャインと同じ女優だということに気付かなかった。)些細な食い違いと現実に対する読み違えから狂気に崩壊していく主婦の像だが、それに比べると、似たような心情と境遇を共有しながらも、自らの身に降りかかってくる狂気の相について、淡々としてひょこひょことよけながら、飄々として物事に次から次へと対処していくことの出来る小泉今日子の細やかなフットワークのなんと冴えていることか。08年の映画の現状において、レボリューショナリーロードとトウキョウソナタを比べたときに、日本の批評的かつ映像的生産力のほうがアメリカのそれよりも上回っていることを証明することができるだろう。(アメリカ映画が今でも帝国的な優位にあるのは、個々の作家の能力というよりも、システィマティックに完成された伝統を継いでいるハリウッド的な生産システムというアーキテクチャの連携力においてである。作品を実質において生み出しうる個人という意味でならもう日本のほうが充実しているのかもしれないと思う。)

ディカプリオ演じるセールスマンの夫と破局的な夫婦喧嘩を演じ、家の外に出て周囲の森で狂気を宙に晴らすかのように意味不明の徘徊をしている妻の姿。妻は元女優志望だった。夢遊病者のようなその妻の振る舞いを家の中の、暗く静まり返った窓辺からガラス越しにじっと覗いて見ているしかすべがないディカプリオ。覗き見る夫の姿と、理性を失い浮遊している妻の姿。森の中の不明な徘徊とそれを覗いている静かな家の中の窓辺という図式は、黒沢清が『LOFT』で撮って見せた森の中の構図そのものを反復しているかのようである。

人里はなれた別荘のある寂しい森とそこに佇む家の内部との、入れ替わる視線の構図。黒沢清の場合、『LOFT』にて湖の近くの古びた山荘で、実は過去に殺人の行われて霊の取り付いている呪われた屋敷なのだが、外で意味不明の作業をしている隣家の住人の豊川悦司と、呪われた山荘と知らずにやってきた作家の中谷美紀の、家の中から外の他人の行動を覗き見るという視線において、メンデスの今回の映画と似ている。おそらくこれは同じものが反復されているのだろうが、登場人物の内面的観察の仕種として、この視線の盗み合い、視線の食い違い、交わらない一方通行の構図が何を意味しているのかというのは、登場人物の外側にある現実についてはただ覗き見るという遣り方によって、視線を隠蔽しながら対象の不明な動きを追うしかないという、不安定な主体の体制を、映像の構造で示すものになっている。

黒沢清とサムメンデスとは、テーマにおいて共通するものであり、おそらくメンデスは黒沢清の映画から相当のインスピレーションを得ているのではないかと思う。しかしやっぱり黒沢清のほうが遥かに上手をいってるのだろう。黒沢の『LOFT』では、出てくる主体は映像の中で追い詰められていきながら、そこではみながパラ=サブジェクト(擬似主体)にすぎなかったことが暴露されるし、主体の像の複数的な見せ掛けの彼方に、殺された亡霊の女とか、原型である湖の底に沈められた腐乱した女性死体とか、作家である中谷美紀といった像が次々出現し交差する中から、向こうにある冷徹な現実の温度を湖の彼方として顕在化させている。

それに対してメンデスの映画では、結局自分の夢がどうにも報われなかった妻の自己破壊的なこの世界への仕打ちとして、自分の手でバスルームでの堕胎を企てる。リビングの窓辺に青い顔をして戻ってきて立ち、外の眩しい世界を見やりながら立っている彼女の足の間に、血の塊がたれてきて絨毯をよごし赤い痕が広がる。最後に仁王立ちのようになって、画面全体の光を塞いだ女の背後から読み取れるものとは、主体が無理な遣り方によって窓辺にハイパー=サブジェクトの幻像(超幻主体)として立ち塞がり、それで我々がスクリーンの視界も影として見えなくされるのと同じに、外的現実の視界も見失い、人物は自滅を遂げるという結論である。単に主体とはそこで超越すると同時に滅びるといっただけのことである。

同じ中産階級的必然性としての安定した閉域の憂鬱像を描きながら、メンデスの映画が出口について殆ど想像力を持っていないのに対して、黒沢清は出口の存在をこそよく見ようとしている。これは単に設定としての50年代とゼロ年代の現在との違いというだけではない。黒沢清にとって、家の中に入ってくる外部の光を薄くうまく壁に反映させることのできるように、技術力の勝利なのだ。トウキョウソナタであれば、小泉今日子は幾つかの事件を中産階級的な憂鬱で中途半端な受難の事件として経た後に、次の均衡点へと、夫と子供とともに到達することができる、静かに次のポイントへと落ちていくのだ。それに比べて、メンデスの映画の中のディカプリオとは、ただ闇雲に夕暮れの暗がりの中を走り去るだけであった。中産階級の時代的に覆いかぶさる構造に対して、どちらが風穴を多く開けることによって優れたものであるのかは、もう言うまでもない。我々はもう四十を超えた小泉今日子のタフネスに、ただただ乾杯するだけである。