『SEX AND THE CITY』とは何故面白かったのか?

去年の夏頃、深夜に起きているとついつい気になって、全部終りまで見てしまうテレビドラマがあった。実はそれが『SEX AND THE CITY』だった。アメリカの連続ドラマシリーズとしてどうやら相当に有名であるらしく、僕は全く知らなかったのだが深夜に毎度やっているのでつい見てしまったところ結構この世界にはまった。

テレビの連続ドラマに僕がはまるなんて滅多にないことである。テレビでも僕が見るのは報道系の物以外には殆ど見ていて耐えられず、ドラマやヴァラエティの類はめっきり苦手で、あの独特の時間性の中には全く入っていけないことが多い。もう入口のところでウンザリして躓いてしまう。それに比べて報道というか、それが形式的な情報に還元できるものならば逆に何でも来いという感じで、芸能ニュースなんていうのは、そこにあらゆる人間的情報の要素がよく凝縮して纏っている深みとして発見するのがとても面白く、何でも情報分析の対象になってしまう。しかしドラマはいつまで経っても苦手なのだ。どうもテレビドラマを見る方法というのが僕には分からないのだ。

僕が最後にテレビのドラマを積極的に、主体的な態度でのめり込めた経験というのは中学生までのことで、それ以降は滅多にテレビドラマの持つ時間性と僕自身の時間のリズムがシンクロしなくなってしまった。僕がテレビドラマを見なくなってから、見れなくなってから、世の中には様々なドラマが電波に乗って流れ続けていたはずだ。でも「ふぞろいの林檎たち」も見なかったし、ツインピークスのTVシリーズをやってたときも、僕はそれをテレビでは殆ど見れなかった。見はじめてもテレビだとすぐに飽きてしまうから。(だからこのシリーズはレンタルで見るように勤めてはいるのだが。)

ある時期からか、テレビの制作にとってドラマというのはとても戦略的なものになり、ドラマの粗筋から物語構造のチャートといったものを本編と独立して暇な時間帯のテレビに流すような習慣がはじまった。ドラマの中に存在する遅い時間性には一々付き合ってられないので、これならチャート式的なドラマ構造の早分かりができていいかと、そういった番宣用の放送にも僕はチャレンジして見たことは何度もある。それでもやっぱりテレビにとって何故ドラマに面白みが生じるのか、僕には再び理解はできなかった。子供の頃は普通に即テレビのドラマに感染できたのだ。水戸黄門でもなんでも面白いと思えた。しかしそれがいつからか全くできなくなった。一種の不感症かもしれないが、情報を読み取る脳の構造にとって何かとても必然性のある不感症のような気がする。

今時のテレビドラマというのは、チャート式ですべて論理的かつ構造的に分かりやすく展望できるように、作るほうでも作っているし、視聴者への宣伝方法も勉めて簡単に伝えようとしている。これは視聴率競争の結果、テレビドラマの量産的な制作体制が生んだチャート式なのだが、単に視聴者の興味に直接的に分かりやすく添えようというだけではなくて、シナリオに興味のありそうなテレビの向こうの専門的なマニアにも向けても配慮されてるので、物語工学といった観点からは、どこから切っても分析しやすいように、ドラマが物であり商品として流通するための最適な単位によって見事に区切られて計算されたマニュアルとして、番宣放送などで流されているのだ。

これはこれですごいことだと思うのだ。ドラマがあってそこには物語の構造があって人物がいて、主要人物と脇役的な背景の人物に分かれ、出来事が数学的なシーンとして分解され、その合成と分離の時間的な過程を作るチャートについて、ドラマ本編のあんちょこのような物を、ちゃんとテレビ局の側で用意してくれて暇な時間帯に流しているのだ。テレビをつけっ放しにしていたりすると、番組表の構成というのがそういう風になっているのが分かっていながらも、しかしそれでもテレビドラマというのはどうも触手が動かない、僕にとって入っていけないジャンルであった。

その僕が珍しく久方ぶりに入っていけたドラマシリーズがあった。それが『SEX AND THE CITY』である。この僕でも面白いと思えたのだから相当巧妙によく考え抜かれたドラマだったのだろう。夏の間の深夜僕はこれを見ることに嵌った。毎回放送時間をチェックしてはなるべく最後まで見ようと努めた。しかししばらく続けて見てるとやっぱりこのドラマにも飽きが来た。よく延々と同じシチュエーションで同じようなネタで回してるなと思うようになった。それだけドラマが長く続けられるということは、アメリカで制作された時にはよっぽど大きな反響とヒットがあったのだろう。多くの一般的アメリカ人の心を魅了し日本にも鳴り物入りで上陸したドラマシリーズだ。本当に延々と同じ基本構成で続いていく、ニューヨークの四人の女の物語だ。

しかしさすがに僕も二ヶ月ぐらいで続けて見るのに飽きが来て、最初これは12チャンネル(東京地区)で深夜やっていたのだが、途中で放映が8チャンネルに移動してからは、登場人物たちの設定も一回り年齢が進み、しかしやってるゴタゴタはずっと同じなのでもう見なくなった。そして去年の秋だったか、『SEX AND THE CITY』は映画化されたというのでまた更に話題になった。先日それがDVDで出てきたので借りてきて映画版も見てみた。映画も特にテレビシリーズの単純な延長以外には意味をもたず、テレビ版も映画版も特に区切りや断絶や冴えの違いなどがあるわけでは全くなかったのだが、しかしこのドラマがカルト的に、連続して人を惹きつけてしまう魅力とは何だったのだろうかとは考えずにはいられない。

ニューヨークで出会った白人女性四人組のストーリーである。ニューヨークでの日常生活をそこで暮らすキャリアウーマンの、正直な性生活に焦点をあてて淡淡と描いていくもの。演じられるコントの一つ一つは、妙にリアリティに充ちていて、どうも興味がツボに入ってしまうのだ。何故だろう?女性の女性による本音の告白大会という感じが演じられていて、男の立場からはなかなか気づくことの出来ない、女が本当はどう考えどう感じているかという物事の次元が論理的に説明されているからだろうか。しかしこのドラマの視聴者は女性のほうが圧倒的に多いのだろうし、ガールズトークというのか、女にしか分かりにくいコミュニケーションの法則性に乗っ取って再現していることと、女性のセックスの本音について率直な、というよりむしろ堂々とした表現を与えることに成功しているからという所がポイントなのだろう。それは女の大胆さといったものがドラマ的に興味本位な受けを狙っているとも見えるのだが。

女性のコミュニケーションには独自のルールがある。これは男のルールとは相当に異っている。この違いを読み取れない男とは、はっきりいって世の中には、僕を含めて大変多い。女性のルールとは、より暗黙的であり、仄めかしと言語ゲームの自然生成に充ちていて機転を効かさざる得ない奇妙な強制力を要求している。だからある意味グループへの服従性も強い。排除力も強いがその分吸心力もその倍くらいに強く過激である。しかしそのわりには忘れっぽくて過去は割とすぐに消え目の前の出来事に対して合理的に限定して楽しめるというか、割とさばさばとした軽いルールでもあるようなのだ。その表面性はある意味女性的な残酷さにも映るだろう。

この女たちのルールを外から学び読み取るのは、男にとって相当に骨が折れることである。同じ女同士でも、グループが違うともう即座にルールが変わるのだ。女の立場でもすべてのルールに対応し学び取るのは困難な技である。だからそういった友情のルールのマニュアルになるようなものが、女の立場からも男の立場からも需要があるというのはとてもよく分かる話である。この僕でさえ惹き付けられてしまった、知恵者的な好奇心を放つマニュアルには、そこで蓄えられている重層的な襞の吸引力がある。

しかし『SEX AND THE CITY』の表現してる舞台だが、ニューヨークという街の現実とは、このドラマでよく分かるが、田舎者の天国なのだ。そこでは皆が余所者にすぎなくてそっちのほうが当然であり、安易な人々が考えもせず沢山入ってきて解放的に交流し、相手を選択しセックスをしそして山のようなトラブルの束を日夜排出している街の姿が、偉大な田舎者の為の街であるところのニューヨークの正体である。誰もがここで孤独になり、そしてここの誰もが人並み以上に我侭で淋しがり屋で他者とのより際立った過剰な交通を渇望している。異なる生い立ちをもった人々が偶然的に籤引のように出会い友となり、NYというキーワードだけでもって、日夜激しい愛と友情を結び合う欲望に取り付かれている。愛と友情を求めて何処までも動物的にさ迷い歩いてる。NYの原動力というかあの街の回転している動機である。

もんでニューヨークというか、NYは不特定多数大量の欲望をドラム缶の束のように供給している。NYという街の異様さが前提にならなければ有り得ない、女たちの友情がそこでテーマになっている。NYのヤンキーな軽薄さと派手派手しさが、一人の人間の孤独の穴を発見させ、掘り当てる。逆に強烈な忘我の瞬間とは、NY的求心力の渦の底からやって来る。NYの軽薄さの中で徹底的な孤独とは、孤独の普遍性をこそ正確に浮き上がらせる。株式相場のようなアップダウンによるこの落差の激しさをもって、人生のリズムだと示されれば、それほど人生のメタファーとして簡潔で理解しやすい話もない。キャッチーな分かりやすさとはNYを渡り歩くための武器である。女たちによる女たちのドラマ、『SEX AND THE CITY』とはかくも普遍的なヒットを世界に飛ばしているのだ。