『生存の美学』が成立するための条件とは?

映画『ブロークバック・マウンテン』において二人の男の同性愛を「生存の美学」たらしめているものとは何だろうか。

そもそもアン・リー監督のこの作品が2005年度に話題を集めたジャーナリスティックな理由とは、カウボーイの中に同性愛がありえたという物語がアメリカ社会における今までの時代的通念にとってタブーに触れたからである。むしろカウボーイ的な種類の人々というのは、最もアメリカ社会で同性愛と異なる、それに反対する信条傾向の中に生きている性質であると見なされているからである。同性愛に対して最も差別的な通念を譲らないのがカウボーイ的なスタイルの人々であり、アメリカの最も保守的な層というのはこの部分によって支えられていると考えられていた。アン・リー監督がこのストーリーを世に問うた時、彼はアメリカの保守的な部分にある梃入れをしたのだ。しかしそれは別にアン・リーが何か革命をしたというのではない。既にアメリカ社会の一般的な通念として、そこまで社会習慣的なコードの変更が時代の成り行きとして進行していたことを意味しているものである。アン・リーのこの作品に革命性はない。むしろそれはアメリカの社会通念としての保守性の向こうに、その通念としての社会的信憑性よりも更に保守的であるが故に普遍的な自然の姿を発見するためのストーリーといえるものだ。

イニスとジャックの最初の出会いは1963年であったという設定になっている。そしてジャックが不慮の事故死によって呆気なくこの世を去るのがその約20年後の80年代であり、それを一個のストーリーとしてアン・リーが成立させて表現したのが2005年である。ここには約40年間の社会的な時間の進行がある。この40年間に起きたこととは、リベラルな先進国社会における性的な社会通念を巡るコードの体制の代替作用である。

イニスは自分の幼年時代にあるトラウマ的な光景を焼き付けていた。それは田舎の保守的で宗教的な生まれ故郷の町で、ある日一人の同性愛者が町の人々によって捕まえられてリンチにあい、ペニスを切り取られて殺され谷に葬られている姿をイニスが目撃したことによる。保守的なアメリカ、カウボーイ的なアメリカとは、極度にホモセクシャルを忌み嫌っていた。

しかしイニスは60年代、彼が二十歳の時にこの禁断の領域に、ジャックの導きによって踏み入れることになる。そこから性的なコードの体制において社会が微妙に変転していく過程を時代は迎えていくのだ。イニスは羊を放牧した山から降り、町で新しい仕事をもった。食肉工場で働き、可愛い女性と結婚した。イニスのセックスの体制は、山の体験の以前のものと再びなった。イニスには娘が生まれて育てた。ジャックは山から降りた後、最初はロデオのショーに荒馬乗りとして出演していた。そこで知り合った美しいロデオの女性と結婚し、彼女の父親の経営する会社のセールスマンとして成功を収めた。ジャックにもジュニアが生まれ裕福な父親となった。ある日、ジャックからイニスの元に手紙が届いたことを切欠に、二人は再び関係をもつようになった。その事を知ったイニスの妻は深く絶望し、結局イニスは離婚するはめになった。

ここには保守的なアメリカ社会のコードから逃走しようとするイニスとジャックの姿がある。20世紀後半の60年代以降に、このコードの変更が起きなければ、イニスとジャックのストーリーは美学的な実在として物語化されえなかったのだ。イニスとジャックのストーリーは、時代的な社会通念の変更していく狭間の過程において、悲劇性を背負わされている。しかしその同性愛を巡る悲劇性とは、キリスト教社会がもっと強固に反動的な時代であった時のものとは異なり、微妙な自由と微妙な寛容の中で、周囲の家族たちには沈黙の目撃の中で、ある崩壊していく運命を背負っているが故の、静かな暗黙の崩壊の過程を生きていく潜在的な悲劇性なのである。

イニスの子供時代は、まだホモセクシャルは排除の対象だった。それが暗黙裡に処刑されて遺棄された死体を少年のイニスは目撃した。そんな狭く小さな町の堅牢な観念の社会でイニスは成長した。そして物質的にも情報量的にも豊かになっていく社会の進展は、微妙な外部を彼らの生活世界に開き始める。保守的な田舎社会のタブーとは明瞭で攻撃的なものではなくなり、しかし暗黙の非難の対象、妻からの責めある視線として、やはり依然として微妙かつ強固に残り続けていた。そして80年代に、ジャックの突然の死によって、この静かな崩壊劇は唐突に幕を降ろすことになったのだ。