『自己愛する神』の存在−『ブロークバック・マウンテン』

ブロークバック・マウンテン』は、アメリカのカウボーイにおける同性愛を扱った映画である。1963年、ワイオミング州のブロークバックマウンテンにて、羊の放牧管理の仕事を得た二人の男の存在があった。二十歳の青年、イニスとジャックである。二人は大自然の中で二人きりの生活を一夏過ごした。厳しい自然環境の中でキャンプ生活をしながら二人は助け合っていた。やがて二人の男は同性愛の関係へと発展した。山の仕事から降りた後、二人は別々の人生を送った。それぞれに妻を持ち家庭を持って子供をもうけた。そして数年後に二人の男はまた再会することになる。

『ブロークバックマウンテン』において二人の男性が同性愛的関係に入るにあたって、その過程を導いたものとは、大自然の山々から発する過剰な力の存在であったといえる。イニスは本来マッチョな精神性としてのアイデンテティを維持している男であった。ジャックの場合は元から同性愛的な傾向を備えていた。山の中で孤立した過酷な自然環境の中で、彼らはキャンプを張りながら羊の放牧を管理して移動している。彼らは羊を移動させた後に自分たちの寝床のキャンプを作り、バーベキューをして食事をとってから寝る。朝になればまた再び羊の大群を導いて移動させる。単調な生活だが、山の天候は時に過酷である。彼らのキャンプをどんな強風や嵐が襲うかもわからない。彼らはその生活を繰り替えしている。もちろん彼らの身体にとって、夜に問題になるものとは彼らの過剰な性欲の存在である。バーベキューの火が消えていくのを横にして、男は自慰をしながら自然な眠りに入る。ジャックにははじめからその傾向があったが、イニスは最初拒否している。しかしちょっとした任意のものといえる切欠によって、大自然の権力が触発した二人の男の過剰なエネルギーは噴出し、同性愛行為へと展開していった。

大自然の孤独な環境は、彼らに自己愛することを強いたのであった。否、それは正確には自然が強いたというものではなく、自己を愛することが自然であるということを、孤立した大自然の環境が彼らに示し、彼らはその自然としての欲動に従ったまでなのである。彼らの最も本質的な務めとは、そこでは自然に従うことであった。そして自然に従うとは、自らを愛することを認めることであり、彼らだけの孤立した環境にあって、それは同性としてのお互いを愛し合うことだったのだ。ここには自然の命令に従順になることによって、力動的な至福を、聳える山々の景観と共に実現した、ある人間的な情動の究まりがあったのだ。ここでイニスとジャックという二人の男が従っているものとは、そしてこの二人の運命として刻み込まれたものの存在とは、明らかにスピノチズムの存在である。

自然に従うことが、神の愛をなぞる事であるという教訓とは、スピノザのエチカに示されている通りのものである。イニスとジャックが実現したのは、自らがこの大自然の自己愛となって同一化した事なのだ。

スピノザ『エチカ』第五部 知性の能力あるいは人間の自由について

定理三五
神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する。

定理三六
神に対する精神の知的愛は、神が無限である限りにおいてでなく、神が永遠の相のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて、神が自己自身を愛する神の愛そのものである。言いかえれば、神に対する精神の知的愛は、神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である。

スピノザの体系性にとって、自然界における根源的な起成原因とは、エチカの最終部分で示されることになる。神は何によってこの世界を動かしているのか。それはスピノザの結論によると、なんと「神の自己愛」であるということになっているのだ。スピノザにとって、人間の営みを突き動かしている動機とは、根本的には人間にとって名誉心を求める心ということに還元して見ることができるということになっている。そして更にその根底に、人間も自然界をも動かしている根本的な要因とは神の意志である。神は、この世界で唯一の自己原因を持つものであり、自由意志を備えるものとは神でしかないのだが、その神は何によって働いているのかというと、それは神自身の自己愛であるというのだ。

自己愛する神の存在がこの世界の背後には働いている。世界の背後にある実体の正体とは、スピノザのエチカにおいて最後に謎解きのように明かされるのだが、それは神の自己愛であったのだ。ちょっと不思議な考えかもしれないが、スピノザはそう考えているのだ。それはスピノザの原理的なスタンスであり、彼にとっての基本的な生活態度にも繋がるものだったのだろう。それでは神によって生じる運命の中で、人間に為し得ることとは何なのか。それは神への知的愛によって、人間にとって、出来うる限りに、神の働きを認識することに他ならない。人間に可能なこととは、この神が巨大な自然界として、自己愛することによって起成する要因について、その論理的必然をただ理解しようとするのみである。神の摂理=自然の摂理について、人間は正確に理解できたときのみ、正しく能動的な喜びを享受することができる。人間はその正確な認識によってのみ、正しく行いを為すことができるということになっている。