人間性と自然性=自然と反自然の循環式
1.
柄谷行人の『倫理21』において最終的にはこのようなメッセージが論理的に導かれることになる。
一つだけ念を押しておきたいのは、資本制段階からコミュニズムへの発展はけっして歴史的必然ではないということです。それはただ、「自由であれ」、「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という、倫理的な義務からのみ生じます。歴史には意味も目的もありません。しかし、それは、実践的(倫理的)にのみあるのです。
柄谷行人『倫理21』
しかしこのように言われるとき、我々はまた歴史上同じ言説と主体性の構造が再生産されるのを目にする。資本主義という対象性に対して共産主義運動を主体化する際の合言葉として、このテーゼが常に集団的なメッセージとして確認される。反自然的な振り切りと覚悟性への行動的なメッセージである。これがやはり何かのsame old sceneであることに我々は警戒しなければならない。
柄谷行人の導出を前にして、改めて確認しうる歴史的な教訓とは、社会的な発展の進化とは、常にそれが無理に行なわれることはありえない。誰もが、無理な手段を通じても、理想社会へと、共産主義社会へ移行しようとは思わないということだ。何か悲壮な顔をして、文学的な決意性によって、それが成し遂げられるようなことはありえない。歴史の進行とはそんな文学的な思い込みの中には何処にもない。そこにもし必然性があるのなら、それが人々にとって共通に認識されうる社会的な条件を発見しうるならば、その移行とは歴史的にいってありえたのかもしれない。
しかし社会の自然な条件が、自由主義と資本主義にあり、あくまでもそのヴァリエーションの中でのみ、構成的に、そして修正的に人間社会、共同性の条件とは可能になり、共産主義という人間的想像の最たるものも、やはりその可能的なヴァリエーションの中でありうる特殊な形態であり、決して絶対的なものではありえないのだということがわかるとき(一般的に共産主義国家として定立される実在とは、国家独占資本主義の一要因でしかなかったという歴史的な経緯がある)、そこにもやはり人間的想像=人間的衝動の無理な押し付けとして、共産主義というイデオロギー表象が機能していたのだということが、再び理解されうる。それはやはり人間的なものの投影であり、従って不十全な表象であり不十分な認識なのだ。
2.
社会発展を促すときその無理強いな手段とは、歴史的に見てそれは今まで暴力革命による国家権力の奪取であったとされてきた。共産主義は暴力的に政権を奪取することによって共産主義国家の前提を獲得するという傾向のイデオロギーであった。しかし必ずしもそこに暴力手段を伴わなくとも、無理強いをする傾向とは精神的なレベルとして実在する。それもまた文学的なイデオロギーの別のあり方である。
イデオロギーは文学を常に補完物としてもつが、しかし暴力は必ずしも伴わなくてすむだろう。啓蒙言説のイデオロギー的な欲望として、自然の正確な認識を病的に損なわせてしまうような、言説の連鎖における傾向的な悪しき欲望は依然として実在するということだ。何故だかこの病的人為性を、ある種の人々が現代社会において欲望するように仕向けられる、そういう傾向もまた存在するのだ。必ずしもそれは暴力だけではない。
何物かを為そうとするとき、確かに自然を振り切る仕種を我々が自己に強いる営みとは、必然的なものである。この最低限の自己克己の方法がなかったら、個人は一生の間で何事もなしえないだろう。社会集団は、経済的な進歩をなしえないだろう。自然の持つ何処までも強かな傾向性に対抗して人間的な克己を立ち上げる倫理的な方法論がなければ、その国の人々はいつまでも社会を進化させることができない。
南の国に住む人々は、労働的な克己の必然性をいつまでもよく知らないが故に、自らの国の文明を進歩させることもなかった。南の国にとっては、ただ自然に従って生活しているだけでも豊かな恵を享受することができるからである。物質的な文明を進化させえたのは、むしろ北の国に住む人々の勤勉な習慣性である。北の国にある欠如と、常に死と隣り合わせになる環境的な条件が、自己の生活を正しく律しなければ生きていけない必然性の観念を人々に植え付ける。そのとき怠惰ではなく勤勉としての人間的性質が取って代る。北の国では勤勉さと労働することこそが必然性なのだ。そして結果的に人間社会を文明として進化させる契機とは、人間にとってのこのような条件にある。寒すぎても人間集団は文化を進化させられないが、暖かすぎてもそれは進歩しないのである。
ただ待っていても行動が訪れないとき、我々にとって取りうる手法とは何だろうか。欲望とは万人にとって平等に与えられた自然条件であっても、欲望自身が常に何かの結果なのだ。それは個人が一定の社会関係を既に通過してきた存在であるということの証であり、結果である。欲望は最初からあるものではない。赤ん坊がミルクを欲しがるとき、それはまだ動物的衝動としての欲求と区別がない。人間的な欲望の存在とは、それ自体が社会的産物である。
3.
反自然的な衝動について、常に人間は取り付かれている。いや、人間にとっては、常に意識が反自然的な衝動と表象にやられてしまうことこそが、最も自然な事態であるのだともいえる。人間にとって、錯覚すること、間違えることとは、意識の宿命的な構造である。錯覚すること間違えることこそ最も人間的な自然なのだ。しかしそれは人間と理性の能力にとって、最も惰性的な傾向性のことである。人間とは自己努力によって、理性の力を使って、今ある惰性的な傾向的自然よりも、より大なる完全性としての自然に自己を適合させうるという能力を所有するものなのだ。
悪いのは自然を巡る表象、ナチュラルなイメージのことなのだろうか。あるいは何故だか倫理的義務としての決意的行動を強いるよう自己アピールする設定をされた啓蒙言説の実在なのだろうか。自然の表象が悪いとき、それは自然に見せかけて偽の自然の表象を宣伝しているものだからだ。本当の自然として見出される次元とは、リアルな次元であり、決して積極的な形では宣伝し得ない、表象し得ない次元にあるものである。イメージ化された自然とは、もう既にスピノザが呼びたがっていた自然とは違う。それは人間的表象に回収されてしまった死んだ自然である。
4.
自然もそれが何かの自然主義プロパガンダによって利用されるとき(たとえば宗教やヒッピーが好むような)それはもう偽物のエコロジーなのだと考えてよい。あるいはエコロジー自体の中にはスピノザの自然概念はない。むしろスピノザが自然という名で呼んだものは、その多くの部分が現実界のレベルのことを指している。しかしスピノザにとって現実界が即自然と呼ばれうるということは、何かその次元、そしてカント的にいう物自体の次元には、自律的調和性が自ずから含まれているのだという自然=神と捉えることによる、スピノザ自身の信仰が含まれていたということである。故にそれは現実界とイマジナリーの統一ということで、スピノザの指示していた物は正確には現実界を外れている。
それに対してあらゆる主体性論の表象もやはり偽物である。倫理的決意とは集団的な表象として成功することは稀であり、故にたとえそのような共同性が成功するときであっても、それが原理主義的に再生されるということはありえない。
柄谷行人が倫理というときの倫理とは、もう既にスピノザのエチカを多く外れている。なぜならスピノザにとって倫理とは、柄谷のいうような義務の観念は含んでいないからだ。スピノザにとってそのような義務の強制力、そして柄谷的な契約(NAM)=掟の強制力、ダブルバインドの柵とはみな人為的想像物である。
一般に生活する人間の平和状態は、なんら自然状態(status naturalis)ではない。自然状態は、むしろ戦争状態である。言いかえれば、それはたとえ敵対行為がつねに生じている状態ではないにしても、敵対行為によってたえず脅かされている状態である。それゆえ、平和状態は、創設されなければならない。なぜなら、敵対行為がなされていないということは、まだ平和状態の保障ではないし、また隣り合っているひとの一方が他方に平和状態の保障を求めたのに、他方から保障が与えられない場合は(こうした保障は、法的状態の下でのみ生ずることができるのであるが)、かれはこの他方の隣人を敵として扱うことができるからである。
カント『永遠平和のために』第二章