なかなか気付かないが実はそれは戦慄の映像だった

ここ数日テレビ報道で流され続けている映像に戦慄を覚えている。しかし、この不気味な戦慄の存在に気づいてる人はどのくらいいるのだろうか?見れば見るほど、それはあまりにもよく出来た映像で、まるで漫画をそのまま表出したもののようにも見えるが、実はそのすべてがリアルそのものであるのだ。見れば見るほどその映像がリアルすぎて、あれが本物の事件かとは疑ってしまうようだ。

高層マンションから他人を突き落とした41歳男のニュースが何度もクドイほどに反復されるのを目にする。男は現在は無職だが、つい最近までは仕事をしていたそうだ。妻がおり子供が三人おり事件の現場からさして離れていない場所に一軒家も持っている。普通の日常社会、堅気の世界で生きていた人。

しかし男のここ最近の調子というのは、無断欠勤が続いたり自殺願望を漏らしたり挙動不審であったみたいだ。 男が、マンションの15階まで清掃の68歳のおばさんをおびき寄せて、突き落とすことに失敗した後に、自転車置き場のところを必死に走って逃げている姿が、彼の表情も含めて、監視カメラに収められて、テレビで一般公開された。なんとも神妙な顔つきをして必死に走り抜けていくその男の映像がテレビで何十回と反復して流された。

不気味な映像である。オカルト的でさえあるその姿だ。漫画にでも描いたような姿、あるいは何かシュールレアルの絵の世界の出来事みたいに。しかしその映像は考えさせられるのにはあまりに出来すぎた映像に見える。犯罪と狂気を象徴するに相応しい条件をすべて兼ね備えているような映像である。

この事件を何度も反復して流すテレビの画面を見ながら、これでマンション販売からマンション経営の現場において、監視カメラの設置は常識的で当然の事態になるだろうと思った。そういう意味であの映像は決定的なものになった。日本の民衆的なセキュリティ史の中で転換する歴史的な映像になったはずである。

歴史的な狂気の映像。しかもあまりにもリアルに、犯行から逃亡しようとする必死の形相、落ちそうな位四角いメガネを揺らし強張った顔をして部活走りのような格好をした男の姿である。

しかしここでふと振り返ると、少しばかり引っ掛かる妙な次元の進行があるのだ。それは昨今の左翼的な論調の進行だ。どうもこれにはうまく同調できない、入っていけない、胡散臭さというか付き合いづらさがある、そんな言説の構造である。セキュリティや「不審者の表象」の批判が、したり顔で左翼的な語りとして語られている。狭い世界の話かもしれないが、公の言説の進行でもある。

社会的なセキュリティの存在あるいは国家的で治安的なセキュリティを否定していうことが当然のように通っている。そのような流れがあり、批判としても通用している。もちろんそこには必然性があるのもわかる。しかしそのような言説圏において、大文字で遠くの事件としてのセキュリティの非難が出てきたとして、今最もメディアで問題にされている、先日川崎市で起きた41歳男の狂気、15階から他人を突き落として殺す男の狂気の問題には、そこでなかなか言及はされない。

この次元を無視して何故いまだに平気な顔して、監視カメラは悪ですね、不審者は放置にするのが善ですね型の論理が平然と語られうるのかは、はっきりいえば理解に苦しむものだ。要するに左翼を自称したがる人たちというのは、言説のあらかじめ型の決まった構造に則ってそこで何かの情念なり自己主張なりをお決まりのやり方で流しているにすぎないではないか。そういう所が根本的な疑問なのだ。

左翼というのは、こういう本当にリアルな事件に直面したときに、大体は黙り込んでしまうのが常だ。別に、左翼自体がこれをもって悪いと責められることでもない。しかし左翼の中の、ある欺瞞的な傾向が、こういう事件のときに、卑屈な沈黙として実在してしまう、という事実には、触れないでおくわけにはいかないものでなかろうか。

今ある左派的な傾向で混乱してるのは、反セキュリティ部族社会化といったものの形成、そして左派的な側からの思考停止の構造なのだ。勘違いされているのは、部族社会的な迷信傾向というのは、常識的な社会のセキュリティ志向傾向の中にあるというよりも、むしろ事態とはそれと逆で反セキュリティ主義の標榜の中にこそ生じてしまったということである。

この事件を機に、マンションで防犯カメラをつけることは、もはや買う側にも売る側にも絶対的な条件で、常識化する方向にいく。そしてそれに左派的な顔をしてしたり顔で反対するような仕種こそが最も偽善的で欺瞞的であるということにもなる。

それは反セキュリティ部族的なヒステリーを梃子にしなければ出てこない現象である。セキュリティについての正確な位相を取り戻すことが今では緊急であるのだ。反セキュリティ主義左翼の形成が欺瞞であったという経過が、これから真摯に、かつ現実的に問い直されるはずである。日本の社会でも問題の水準が現実的なレベルに高まったのだ。セキュリティという概念が単に抽象的なものではなく真剣に叩き台に載せられるまでに。