スピノザとプライドの価値

スピノザにとって、人間的感情としてのプライドが、彼の哲学にとってはどのような価値を帯び、位置づけを占めているのかを見てみよう。エチカ第三部の諸感情の定義より、

三〇 名誉とは他人から賞賛されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。

三一 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである。

四四 名誉欲とは名誉に対する過度の欲望である。
説明 名誉欲はすべての感情をはぐくみかつ強化する欲望である。したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何らかの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲に囚われているからである。キケロは言う、「最もすぐれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にすら自己の名を署する云々」。

スピノザは人間的行動にとって、社会的な名誉の構造が、根底的には不可避であるということを示唆している。しかしスピノザは、人間的なプライドの構造について、根底まで疑い根底まで考えたといえるのだろうか?畠中尚志の翻訳(岩波文庫)において、ここで名誉、誇りとはgloriaであり、名誉欲とはambitioであるということになっている。gloriaという場合、それは肯定的な性質を指し、ambitioという場合、必ずしも肯定的ではない、否定的な意味での世俗的名誉欲というニュアンスが入っているのだろう。

例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人はそれを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用(弊害)とか、その虚妄とか、人間の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自分の名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦しめるものである。そして彼は怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られようと欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのであることは確かである。
『エチカ』第五部定理十備考

愛とは外部の原因の観念を伴った喜びであり、憎しみとは同じく外部の原因の観念を伴った悲しみであるから、ここに述べた喜びおよび悲しみは愛および憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々は今述べた感情を他の名称で表示するだろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの喜びを『名誉』と呼び、これと反対する悲しみを『恥辱』と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞賛されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そうでない場合は、内部の原因の観念を伴ったこの喜びを『自己満足』と呼び、これに反対する悲しみを『後悔』と呼ぶであろう。
エチカ第三部定理三〇備考