シンボルを解体することの意味


ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』で示した問題設定とは、こんどは『複製技術時代の芸術作品』において更に別の角度から究明されている。

いったいアウラとは何か?時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんな近くにあってもはるかな一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと−−これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することに他ならない。この描写を手がかりとすれば、アウラの現在の凋落の社会的条件は、たやすく見て取れよう。
 ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』


神学的なシンボル化作用とは、他ならぬ同一化するための社会的権力が発生的に巻き上げる求心化作用の条件のことである。宗教的権力の在り方、あるいは権力の自然発生的な外部の抹消作用、それは上からの権力も下からの対抗権力の結集作用の在り方でもともに、気づかぬうちに巻き込まれうる。文学的な表象の同一化作用のときもあるし、教条的な言説の原理主義的な同一化、求心化作用でもある。

このシンボル化の威力とは、外部性と他者性を限りなく消滅させていくことをその内的な目的とする一つの欲求の在り方である。キリスト教が作用したときにも共産主義運動が作用したときにも、教条的な同一化、訓育化のプロセスとしてシンボル化的な教育過程、啓発の過程が機能する。

権力が必ずしも上からのものではないように、シンボル化作用も必ずしも上から押し付けられるものではなく、それは社会の至る場所で等しく発生しうる、その作用の傾向性に染まりうるのだ。

しかし神学的シンボル化作用の巻き込む求心力の横で、そこに抵抗的に突きつけられるアレゴリー的な作用の行使とは、シンボル化が何かの真面目さによって実行されているのに対し、アレゴリーの場合は何かの不真面目さとして、その横に働こうとする。

シンボル化的な善性のイメージの支配に対して、悪魔的なアレゴリーの自然回帰的で復讐的な作用。悲劇的な構成において、それがドラマとして仕立て上げられる。

神学的シンボルが劇の中でそのカラクリを暴かれていくことによって、地に堕ちていくプロセス。もはやアレゴリー化した破片となって地上に落ち、散りばめられていくプロセス。

そこで虚構と偽善のシステマティックな体制は正体を暴かれ、もはや無志向で無方向と化した闇に浮かぶ主体の姿として、新たに暗い普遍性としての自然の空間を漂いはじめる。このようにして人間的想像の手中から自然の姿は奪い取られて、元あったものに回帰したのだ。


ベンヤミンによって『ドイツ悲劇の根源』の中で示された、シンボルVSアレゴリーの闘争の意味とは、『複製技術時代の芸術』において、また別の形によってその意味していたものを定義することになるだろう。

シンボルが壊死の作用を経て朽ち果てていくプロセスとは、次に『複製技術時代の芸術作品』においては、芸術作品におけるアウラの消滅する過程として、その意味が位置付けられることになる。

最高の完成度をもつ複製の場合でも、そこには<ひとつ>だけ抜け落ちているものがある。芸術作品は、それが存在する場所に一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。

オリジナルが、いま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する。そして他方、それが真正であるということにもとづいて、それを現在まで同一のものとして伝えてきたとする、伝統の概念が成り立っている。真正性の全領域は複製技術を−のみならず、むしろ複製の可能性そのものを排除している。しかし偽造品という烙印が押されるのが通例の手製の複製に対しては、真正のものはその権威を保持するとはいえ、技術による複製に対しては、そうは問屋が卸さない。

ここでベンヤミンが指摘することによって抵抗を試みて、かつその抵抗の正しさを証明しようとしているものが、キリスト教的−神学的な、作品−物を扱うときの、ある種の手つきに対してであるということが、了解されうるだろう。


作品−物のアウラ(オーラ)に対し、接する、相対するときの、それは神学的な手つきのことである。この神学的な手つき=シンボル化への敬虔さ、真面目さ、信憑性、思い込みに対して、ベンヤミンは改めて無効を宣告することを、意味している。

この権威、この伝えられた重みを、アウラという概念に総括して、複製技術時代の芸術作品において滅びていくものは作品のアウラである、ということができる。この成りゆきはひとつの徴候であり、この成りゆきの孕む意味は、芸術の分野よりもはるかに広い範囲に及ぶ。一般論として定式化できることだが、複製技術は複製されたものを、伝統の領域から切り離してしまうのである。複製を大量生産することによってこの技術は、作品の一回限りの出現の代わりに、大量の出現をもたらす。