ダヴィンチコード

ダヴィンチコード」がヒットしている。僕も早速見てきた。これが映画の出来としてはどうなのかということについては、ここで論じない。そういうのはテレビで、おすぎさんの批評にでも任せたい。それより僕が興味深かったのは、この映画の舞台としている西洋キリスト教社会の病的な部分の話である。

日本人はキリスト教についてよく知らない。もともとキリスト教は日本の風土にとって内在的なものではなかったのだからしょうがない。だから結果的には近代以降の日本人にとってキリスト教のイメージとはそんなに悪くないのだ。西洋の合理的な精神と資本主義を日本に輸入して根付かせた功績としてキリスト教とは何かモダンでハイソなイメージであるが如くに受け取った。しかしキリスト教社会の暗部、強烈に病的などうしようもなさとは、やっぱりキリスト教の内部にいるものでないとなかなか実感できないし知る機会もないのだ。

資本主義を発達した文明として開花させたのは世界史の中ではヨーロッパのキリスト教社会であった。ドゥルーズ=ガタリの「アンチエディプス」の中には、資本主義を開花させたのが何故キリスト教文明であって、それが中国の文明でなかったのかという問いかけがなされている。キリスト教文化圏の以前に資本主義を発達させていたのは、実はアラブ社会のほうであった。イスラム圏のほうが商業的な慣習が先に発達していた。商業的に自由な文化は最初はアラブ社会のほうであって、同時にそれは知識の発展においても、西洋では禁書扱いになっていたアリストテレスが読まれていて、実学としての技術的な知識を発展させていたのはアラブ文化のほうであったのだ。それが歴史の進展の中で何処がどうか逆転して資本主義とはキリスト教文化圏の中で発展するものとなった。

暗黒の中世という呼ばれ方があるが、ルネッサンス期以前の西洋キリスト教社会とは、精神主義的な抑圧システムとして強烈だったのだ。今から鑑みてみれば、そこでは宗教の存在とは殆ど精神的な倒錯に近いのだ。日本人は、この西洋キリスト教システムが抱え持っている内的な怖ろしさ、おぞましさについて、大抵の場合殆ど何も知らないのだ。隠れキリシタンを弾圧していた江戸時代のような時期もあったが、戦後においてはキリスト教の社会貢献のほうが認められて、日本人にとってそんなにキリスト教のイメージは悪くない。

ダヴィンチコードは、キリスト教社会の遣る瀬無さについて、あくまでも大衆的な視点から大衆的な感覚とわかりやすさでもって描かれた作品だ。だからそこにはヒット作品としての、大衆に媚びる様な凡庸で安っぽい仕掛けに満ちているという側面もある。しかしこの映画が西洋社会において大ヒットを続けているというのは、キリスト教社会の成員には大衆的なレベルでも、キリスト教システムの辛さと下らなさがよく体感されて共有されているのだということを意味するだろう。西洋の住人にとって、この映画の描き出し醸し出している不気味さというのはいつも身近なものなのだ。彼らにとってその不条理の存在とは生活の中の空気の如くである。だからこの映画はとても凡庸なリアルさをヨーロッパの観客には確認させてくれるのだ。

ダヴィンチコードの登場人物で面白かったのはシラスという暗殺者だ。彼はオプスデイという教団に狂信的に帰依しており、秘密文書の入った箱を奪い取るために、トム・ハンクス演じる大学教授と連れの女性捜査員を追い掛け回す。色素のない白子として生まれ幼年時代虐待を受けていて教団によって拾われたという生い立ちである。オプスデイというのは実在のカトリック教団であるそうだ。それがカルト的なのかどうかはよく知らない。しかし歴史の長い宗教教団というのは大昔には大抵とんでもない事をやってきているという事情はあるのだし、不可思議な教団独自の秘密、秘儀というのも伝来し所有されているものだろう。この映画には他にもシオン修道会とかテンプル騎士団など実在した歴史的な組織名が出てくる。キリスト教ローマ帝国の国教に採用し東西ローマの統一をなしたコンスタンティヌス帝の話とか、異端を決定し公式の教義を確立するニケーア公会議のような宗教会議の権力性など、西洋の流れの中でキリスト教がどのような権力であり続けてきたかを説明するエピソードを見ることができる。

シラスという男は、教団の命を受け危険な仕事に自らを賭け暗殺をおかす。裏の仕事をこなすたびに彼は自分の部屋で十字架の前に跪き、裸になって鞭で自分の身体を打つのだ。彼は苦行のために鉄の楔の取り付けられたベルトをぐるぐると自分の足に巻きつけて自分の肉の中に埋め、それで仕事に出かける。この徹底的に自分の肉体を痛めつけながら強度の信仰に没入し、そして命じられた暗殺に出かけるというシラスのスタイルが強烈だった。キリスト教の苦行において、自分の身体から感覚においてすべてを麻痺させるまでに痛めつけて、そして自分の信仰に同一化する、身体的苦痛の果てに神の恩寵を、絶対的なマゾヒズムの果てに内的に見出すというスタイルは、何もシラスという極端な人物像だけでなく、実際にキリスト教的な傾向とはそのような自虐的な儀式性、そして主体性のスタイルが珍しくはないからだ。シラスのような極端なものは稀でも、多かれ少なかれ、キリスト教にはこのようなスタイルが含まれるのだ。

自己身体を痛めつけることによる麻痺のさなかから、神のエロスを見出す。そしてそれはエロスであるが故に感覚としてはバラ色の感覚でもある。この世のすべての苦痛の存在を自己の身体に刻み付けたと思い込むことによって、彼らは神に一体化しうるのだ。それは十字架に張り付けられたキリストという元イメージであり、犠牲の元イメージである。自己意識にとって他者性を消滅させるためには、これ程完成されている方法もまたとないわけである。現実的な他者性を消去させるためには、すべての他者の苦痛とは私と同一化したと思い込めばよいわけなのだから。この身体的苦痛の強度とはテロリスト(=そして攻撃的主体性)の育成にとって最も相応しいものである。それはテロリストにおける主体性の完成である。今はイスラム原理主義におけるテロ、特にビンラディンの教団のメンバーによる自爆テロなどがあるが、彼らにとってもやはり、神の信仰からテロリズムに主体化する際の儀式的かつ身体的な行いとは、ここに登場するシラスのようなものであるに違いないからだ。