キリスト教的身体の問題

キリスト教の文化−システムとは労働を実践行為として、世界の全体像を個人の身体性の中に取り込むビジョンを与えようとする。理想的な労働において、世界は主体にとって、労働を通して与えられる。獲得される。そのような世界の獲得と主体の全体化に関与できない労働とは、疎外された労働と呼ばれる。疎外された労働を克服して有用労働の領域を実現することが実践行為としてのキリスト教システムの目的であるということになる

労働とは自己及び社会の再生産的行為であるのと同時に媒介的な生の営みである。神とは労働の体験の中のある神秘性によって主体の中に宿り、実現されうる。神を身体に反映させるのに、媒介的な契機となるのは、身体にとっての苦痛の通過儀礼だということになる。

苦痛を身体が引き受けることによって、その苦痛が身体を通過していく過程に応じて、身体とは神に向けて方向付けられた主体性を、ある絶対的な内観として獲得するに至ることができる。労働とは身体に対してこのような痛覚を媒介する。労働−身体−主体性、あるいは、労働−身体−痛覚−主体性によって、神に至るための道、エロス的主体性とは開示されうる。

これは何も特権的身体だけの出来事ではない。最初はキリストの身体によって特権的に実現された奇跡体験とされて、シンボリックに記号化された原始的なる表象形式であったにしろ、このキリスト的経験を伝聞し伝えて広め、啓蒙していく一般的な過程において、道徳的な共同体の実現、更には生きた肯定的なる充実した国家の実現を実践的に生み出すのだと考えられている。

身体にマゾヒズム的な苦痛を与えて痛覚を活性化させることは、同時に主体にとって身体を現前化させる(presence)現象にあたる。そこから人間的な共同性=共−受苦性としての社会性を媒介的に通過し、エロス的至福に到達する、共同存在としての人間存在と、神=自然の祝福としてのエロス的境地に到達するという、下向から上向への図式となっている。

キリスト教とは身体性に関与する文化システムである。個人の身体化を実行することは、社会的な主体の育成に関係する。社会化された主体とは共同体的な労働に与し、労働によって共同体を維持し再生産する「力」(労働−力)となりうる。

キリスト教文化のシステムとは、身体性の次元に世界と主体の関係性を全体化する。大地と主体、そしてその小媒介としての日常生活と主体の、想像的な橋渡しに寄与する。主体の身体化は主体にとって世界のパースペクティブを提示する。世界の全体像を開示するのと同時に主体と世界の中間性に当たる生活世界といった次元に再び着地させる機能を有している。