偽の問題

ドゥルーズは『ベルグソニズム』(66年に出版)の中で、問題の所在を正確に構成するための方法について、真の問題と偽の問題を峻別できる基準を、どのようにして持つことができるのか、という方法論の立て方を巡り、ベルグソン哲学についての再構成を図ろうとしている。

ここでまずドゥルーズによって提示される問題とは、偽の問題とは人間にとって幻想として取り巻いている次元にあたるのであり、そのような幻想とは常に、社会的に不可避な根源から連続して導き出されてくるものにあたる、そして幻想とたたかい、真の質的差異、または実在の区分を見出すために必要とされる直観の働きとは、どのようにして捉えられうるものなのか、という事情を明らかにしようと、方法論的な問題を再構成することにある。

ベルグソンはカントからひとつの考え方を借りている。ただしそれを全く変形させているおそれがある。理性がその最も深いところで、誤謬ではなく不可避の幻想を生んでいることを示したのはカントである。この不可避の幻想について、われわれは単にその結果を予測することしかできないというのである。ベルグソンは偽の問題の性質を全く別の仕方で提起し、カントの批判そのものがベルグソンにとっては提起の仕方のよくない問題の集合体と見えるのであるが、ベルグソンはこの幻想をカントと似たやり方で扱っている。この幻想は知性の最も深いところに根があり、正確に言って解消されたり、解消されうるものではなく、単に抑圧されうるのみである。
ドゥルーズベルグソンの哲学」1章方法としての直観

ここで直観というとき、それは意識に直接与えられるものである。しかし意識に与えられるものの中において、我々はそのもの自体の単純性と潜在的なる複数性の交錯する最中から、瞬時にそれを峻別して選択する方向性を掴み取らなければならなくなる。

意識に直接与えられるものとは単に複雑で複数であるのではなく、そのような主体の行動的な方向性の中でのみ、そこで意味のある複数性を開示しうる。またそれは複数であっても無限であるのではなく、複数ではありつつも有限であり、はかなく、生の持続にとってはある緊張感の中から見出されうる質的な差異の勾配である。

だから直観について、正確にそれを摘出しうる技術を磨き、正確な方法論を示そうというのが、ベルグソンの為した問題構成にあたる。正しい直観とはどのようにして導き出しうるものなのか。

偽の問題には二種類ある。ひとつは「存在しない問題」であって、それは関係項自体が「多」と「少」の混乱を含んでいることによって規定されている。もうひとつは、「提起の仕方のよくない問題」であり、これはその関係項がよくない分析をされている混合物を表象しているということによって規定される。ベルグソンが第一のタイプの問題の例として挙げるのは、非存在の問題、無秩序の問題、可能的なものの問題(認識と存在の問題)であり、第二のタイプの例と挙げるのは、自由の問題または強度の問題である。

「関係項」における多と少の混乱というのは、真を規定付ける現実性の要素において、現実性の確認自体が意識の直接与件としての現前性の、力能的な要素の把握の多少の感覚から導き出されるものではあるのだが、確実性の要素を巡る多少の感覚、重みの経済的な感覚の差異によって、人はそれが実際の問題なのか、あるいはそれが存在していない虚偽の問題なのかを判定しうる。「提起の仕方のよくない問題」というとき、何かその基準を示す要素において、純粋ではありえない混合が混乱として忍び込んでいるような場合をいう。

キリスト教的な身体の問題、キリスト教的な主体の把握の仕方をめぐっても、このような偽の問題の次元が、幻想と社会性の関係、幻想と共同性の構成における心理学的なメカニズムとして、常に一定の傾向性を帯び続けていたもの、誤謬ではあるのだが、それが集団的な維持にとってしてみれば、大変に安定させやすい、誤謬−幻想−共同体の次元を、人間にとって提示しうるものであるということにあたる。

何かの共同体的な力学の内在的な必然性の次元から、そのような幻想が導き出されてきたのだということ。キリスト教的な身体把握というのは、その選択−把握の時点で、何を虚偽として引き受け何を真として他に排除するのかという判別性を規定し、何をどのように誤ってしまうのか。キリスト教的フィルターによる錯誤とは、根本的には何処にそのメカニズム的な欠陥の必然性を有しているものであるのか。

キリスト教的身体がまず強度として主体に提示する確実性の根拠とは、苦痛・苦悩の存在であるということにあたる。それは身体的な苦痛から精神的な苦悩に至るまでのもの。キリスト教にとって「苦」の存在の次元を巡って、個人的な苦というものはありえないものである。むしろすべての苦痛は、類的な根源としての共存在によって担われうる、共同的なものの実在にあたると考えられている。

すべての我の苦痛はすべての他人の苦痛に通じているし、すべての他人の苦痛はすべての我の苦痛に通じていると考えられている。このような受難と苦痛の共有性によって、宗教的な共同体の次元を根拠付けようとするものだ。キリスト教的にいって、このような身体的に担われて、かつ刻印付けられた苦痛に逆転を与え、それを至福的なエロスの体験として昇華しなおそうとするメカニズムを担うものとは、「愛」であるということになる。