内包と排除

1.
社会体の進化のプロセスとして、内包社会から排除社会へのプロセスというのが、社会学的に考えられている。それは共同体、あるいは都市社会とその他者性との関係性の変化として捉えられている仮説である。

共同体にとっての他者、すなわち狂人や犯罪者のレベルから障害者や弱者性のレベルに至るまで、それら他者性というのを、歴史的にいって共同体というのはどのように対処してきたかという進行のプロセスをいう。そして社会にとって近代化の過程を経るというのは、この内包inclusiveから排除exclusiveへの変化を現象として見せるのだという。

しかしこの仮説にも一個の社会学的なフィクションが含まれているというのは、内包と排除というのは、それらが純粋に別々のものとして機能するという事はまずありえないものだということである。内包と排除とは社会的な行為として、むしろ表裏一体になって存在している。

共同体の紐帯が内包主義的な精神性、すなわち宗教的な紐帯として与えられていて、それが同時に即経済的な生産体制としても機能していた。しかし近代化の過程、すなわち貨幣経済が前面的に導入を受けて、共同体が交換経済のメカニズムの中で解体されると同時に再システム化の強化を受けることによって、共同体と他者性の関係というのは、それまでの内包主義的な観念から、exclusive=外在的な実在として、経済的に処理を施させるように進化するものである。

2.
社会体の原始的な状態では、部族的な共同体の意識から展開し国家的な包摂に至るまで、それは内包主義の拡大過程として精神的な根拠をもって起きる運動である。内包主義に対応する精神的な装置とは宗教の装置であり、経済行為的にはそれは互酬性の段階にあたる。

共同体の内包主義的な段階においては、そこに保護はあるとしても同時に自由はない。共同体の共有条件を踏み違えればそのような他者とは即追放か迫害にあたる。宗教の歴史を見れば明らかだが、このような自称される偉大な寛容性というのは、いつもその裏腹の敵対性的な他者性の排斥を常に裏には含有し続けてきたものだ。

聖書の物語の進行において、キリスト教の歴史においても、キリストを迫害した人々としての、異教してのユダヤ教を常に排斥して対立するように命令するストーリーが、聖書の中にはよくプログラムされている。偉大な内包の強度を勝ち取るためには、先鋭的で鮮烈なる敵対の経験を、物語として必要としていたのだ。

キリスト教において偉大な内包主義とは、実際には他者としての異教を排除する命令的なメッセージとともにプログラムされている。だからこそキリスト教は巨大な帝国−宗教になれたのであり、国家宗教のメカニズムとは本質的にそのような、内包と排除のプロセスのバランスのよい配分によってのみ、歴史的に機能できたのだということができる。

共同体や都市にとって、他者を受け入れる条件というのが、宗教的な忠誠の持ち方すなわち内面的な支配関係というよりも、外在的で経済的、交換的で量的な関係として捉えられるようになるというのは、個人と共同体の関係にむしろ自由の契機を与えたのだ。このような経済関係の明瞭化に伴う、自由の状態とまたそれに伴う無保護の発達について、単に「排除」という観点から見るのは間違っている。このときexclusiveという訳語の問題にも係わるのだが、それは排除や差別、そして特権的、独占的という意味合い以外にも、それ以前に、ただ純粋な外在性として捉えられなければならないものだろう。

3.
内包的同胞(はらから)の状態から変化して、次には共同体から解離されたものとしての個的実在が出てくるのならば、そのように個人として新たな単位を与えられる近代的人間にとって、共同体と個人との関係というのは、経済的に計算しうるものとなる。そこでは共同体についての無限責任を無根拠に曖昧に抱え込む同胞者というよりも、契約によって、共同体との責任関係を明確化しうる、新たな社会的な体制が、現実のものとして頭角をあらわしてくる。それが社会契約論の成立にあたるのであり、近代社会というのは、資本主義経済の前提によってすべてを交換可能かつ自由で不安定な関係に置いたのと同時に、契約的で経済的な取り決めの関係として、個人という人間の単位を自由なものとして解放したのだ。

このときexclusive外在的なる社会的な契約関係の実現とは、むしろ積極的なる自由の契機として捉えられるものである。外在性とは社会体の進化のレベル、成熟の度合いに応じて、必然的なものになる。それは一方では差別と排除のメカニズムに向かうが、その両義的な反面には、積極的な自由の契機を開示する。

個人の関係が外在的であることは、社会構成の成熟の証しでもある。内包=排除の社会装置というのは現実には表裏一体の形成として社会的に機能するものだ。内包主義を自己肯定する論理とは愛と幻想にこそ基づく。

原始的な社会体において、そこでは未だ個人というのは共同体の形成力からは未分化な状態にある。近代的個人の自律性とは社会体の歴史的な進化の中からシステマティックに誕生してくるものであり、個人の自律にとってみても、そこには一定のexclusiveなる外在性とは、必然的な要件として条件の中に入る。

4.
現在的なネオリベラリズムの分析と批判においても、「資本の実質的包摂」の内容というのは、単に排外主義で排除という体制では全くなくなっているものであり(そういうのは一時代昔の野蛮な資本主義のものとして体制的にも退けられ嫌われるものだ)、むしろ内包の条件と実質的な排除性というのを、うまく抱き合わせることによって、見せ掛けとしての安定性を繕う体制的な装置として実現される。内包がいまだに何処かで強制的な条件として提示されるならば、それは新たな巧妙な形での排除システムの条件を完成させるためとも見えるものだ。強制的に何処かに内包されなければならない筋合いというのは、個人の立場にとっても自律性の観点からすれば本当はナンセンスであるだろう。

内包主義とは国家主義ナショナリズムの論理としていまだに機能しているのでもあるし、そのような国家装置の逆転的な反映としての現代的な宗教の装置、セクト的な論理、そしてカルト宗教の中と、いまだに至る場所で現在でも見受けることはできるものだ。これら古典的ともいいうるような内包主義の論理というのが、現在において、とてもそのままで自律的な契機として通用しうるとは思えないものだ。

むしろそのような愛と幻想は何かの欺瞞性に起源のある延長であり、経済行為的にいえば互酬性的な惰性の温床から持続している賜物であるだろう。本当は内包が機能するときというのは、それは別の形態での排除の条件としてなのだ。歴史的には内包と排除とは常に同じものの裏返しとして存在してきた。

宗教的な装置において、国家主義の装置において、そして家族の装置において。それは偉大な内包を宣言し自称し続けるのと同時に、大きな偽善をも演じ続けてきたものだ。社会的装置としては、それはそのようなものとして今でも痕跡を残している。内包主義の所有する傾向的なる勢いに何かの重力が内在しうると考えられたのは、もう過去の錯覚の産物であることも明らかであり、それ自体が偽の問題であり続けたのだ。