世界の獲得という問題

マルクスによって、鎖以外に失うものは何もないと定義されたプロレタリアートとは、共産主義革命によって「世界の獲得」を可能にするという事になっていた。

このときマルクスの思考にとって世界とは獲得の対象でありえたのだ。プロレタリアとは世界を喪失している実在であるが故に、それは革命のプロセスを通じて、世界を獲得しなおすことができる。「獲得的世界」の発想とは、後の共産主義運動の中でも一般的なスローガンとなって広まったものだ。もちろんこの図式は浅田彰が80年代によく指摘していたように、疎外論的な図式の転倒によって成立する世界である。

疎外−獲得の転倒の繰り返しの中にある世界観の図式なので、そのような世界観の円環とは外部性を欠いている。同じ物の表裏でそこをひっくり返すだけで動き回っているにすぎないのであり、世界観についての一定のパターンの外には出られない構造になっている。外部に気が付かされる事が決定的に遅延せざるえない構造を孕んでいる。

そして、そもそも世界とは獲得の対象になりうるものなのか、獲得とは決定的に不可能な錯覚であるという事情を執拗に突きつけたのが、蓮実重彦の批評であった。蓮実重彦にとって彼の戦略的な文体とは、そのような読者の側からの獲得の身振りを徹底的に脱臼させて疲弊させうる。

疲弊の何度か繰り返されるその最中から逆に同一の問題意識に対する覚醒を嫌がおうにでも顕在化させうるという、それもまた疎外論的な逆転の発想の中にあるともいえなくもない、微妙な挑発の発見に読者を誘おうとする仕掛けの仕組まれた戦略的装置であった。そのエクリチュールの次元を徹底的に経験的な試練として提示する、それはポストモダンとしても、実はあまりに逆説的に近代的修練を問答無用に要求する装置でもあったろう。

浅田彰にしても蓮実重彦にしても、彼らのドゥルーズ読みの解釈から、方法は異なるとはいえ、同様の目的意識をもった戦略が練られたのだとして、このような獲得的世界の幻想に対峙して、そこの錯覚の構造を暴き出すとき、そこにはベルグソニズムの思考が呼び出されるのだ。

このような、世界を獲得の対象として措定する構造の思考とは、何処に起源をもつ誤謬であったのかということが問題になる。

初期マルクスが影響を受けていたのは、ヘーゲル弁証法的運動の世界像ではあるのだが、絶対知、あるいは世界の全体性について、山の頂上を登山の経験によって極めるようにして、そこに到達されうると考えることは、事実や実証性というよりも、むしろ信仰の形式にこそ求められる。知識と一定の修練=労働とそして信仰の一体となっている精神的な形式としてである。

そこでは主体にとって、喪失を余儀なくされた所有というのは、修練の否定的な労働の積み重ねによって、否定の否定として、再獲得の神的な光明を伴って主体に回帰されるというストーリーになっている。

しかしこれは所有の喪失として最初に刻印された主体の傷口について、あくまでもその傷口のぽっかりと空いた空虚な穴を巡って、そこを中心にして組織化される運動になる。そのような穴凹とはむしろ永久に埋まらない穴凹であるのだし、幻想的な対象の空虚を巡って、疎外論的な円環とは、ありえない問題、偽の問題の次元を構成しながら、時間的にも循環を繰り返すことになる。疎外論とはあくまでも所有の想像的実体化としての偽の問題の射程からは外に出られない構造を伴っている。

主体にとって世界が獲得として与えられるとは、何かの身体的な強度の実在を伴って、実感性としてのリアリティを構成している経験である。それは過去に刻印されたと記憶されている痛覚の次元から呼び寄せられる。

トラウマであり、それはスティグマ的な聖性にも転化し、その逆転のためのプロセスを主体の禁欲的な修練によって積み重ねて行うとき、それはプロセスとしてのエロスを伴って物語化される。実際もっともこの獲得的全体性に近しい日常的な人間的行為とは、性的な経験の次元にこそある。