キリスト教的身体の系譜

1.
キリスト教的な身体の構造的な組織性から来る特徴こそが、器官として与えられた身体の組織に、痛覚、そして労働としてのネガティブな負荷をかけることによって、その器官的なる組織的な膨張を刺激して与え、負荷(不快、痛覚の存在)を媒介させて、器官的=身体的なる顕在化を図ることにあるものだ。

それは器官=身体の自己統一の実現である。これがあまりにもキリスト教的なる存在論的自己充溢の方法論であり、その自己享受の(エロスとしての)一般的手段だったのだ。一方ではそれはマゾヒズムのメカニズムにも発展し、マゾヒズム行為として独立した精神性の展開を迎えると、それは道徳的マゾヒズムの自己韜晦的なる情念性の充溢を見るだろう。

道徳的マゾヒズムがそれとして更に強度に進行すれば、病的な精神性から身体性への連結の仕方として自罰性パラノイアの症状も招く。痛覚を刺激し続けることによって、自己の存在を身体的な充溢の感覚的体験として現前化させる。これが慣習化された労働の次元とともに、共同性−主体性の道徳的メカニズムを担うとき、宗教的共同体の規律的統一の組成を生み出し、また個人的な快感原則としてもそれが担われるとき、それは近代的自我としてのトレーニングする主体の実現にまで至る。

2.
資本主義の中の内在的なレベルでの最終的な自己の実現、自己の享楽としての解放とは、キリスト教的な自己−覚醒の方法論の展開の果てに、このようにトレーニングによって自己を享受する自律的な主体の実現にまで至る。

身体的なトレーニングの方法論をフィットネスに向けて主体化させることによって、一定の社会的個人の向上=享楽としての消費にまで繋げて、システムとして自立して展開させたのが、まさにアメリカの資本主義の到達だった。

フィットネスクラブの普及によって身体的な覚醒と自覚の意識を、享楽的で消費的な欲望の社会的にシスティマティックな流れに乗せて、実現させた。資本主義社会の中で労働する個人とは一方では剰余生産のための歯車の一部としての過剰なるストレスによって病的に蝕まれつつも、そのような精神的かつ身体的なストレスの流れを、やはりまた別の角度からのベルトコンベアー的な流れに乗せることによって、オートマチックにかつ身体的な健康の実現として昇華するシステムを、アメリカが先進的に発明したものである。

これは資本主義の社会的な完成点にあたるのと同時に、近代的個人の完成点にもあたるのだ。最後には動物的にも身体を与えられた賜物として享受し享楽できる、解放された個人たちの姿である。これは労働主義的なモダニズムの機械体系にとって、あくまでもその前提を崩さずに内的で自動的な流れの展開によって解放的な出口を実現させる画期的なシステムの展開だったのだ。近代的個人にとっても、剰余価値の社会生産にとっても、生産性の向上の観点からすれば革命的にあたる。フィットネスクラブの存在とはいまや普遍的な次元にあたるものだ。

3.
世界の獲得とは、労働者的な個人にとって、もはや共産主義運動やプロレタリア的な連帯性などという面倒くさい手段に頼る必要もなく、身体的フィットネスによって、マッスルの自覚と自己顕在化によって、オートマチックにシステムの中の流れの一部として、身体的に手軽に実現されうるものになった。フィットネスによって実現される筋肉的身体とは、男性も女性も問わずに、即性的な自己享楽の実現として、身近に、合理的に、開かれたものとして、誰にでも与えられうる方法として解放されたのだ。誰もがそのような、性的な筋肉の収縮と弛緩の運動性の最中において、自己を実現すると同時に自己を忘却することができる。そして自己実現と自己忘却のこの絶妙なるコンビネーションこそが、キリスト教システム=脱自的存在論のシステムとしてのエクスタシー主義文学が目指し続けていた方向性なのだ。

原始のキリスト教的身体の実現=享受として方法化されていた同じ物とは、それがモダンのプロセスとして、資本主義的にシステマティックな合理化と洗練の波を経ることによって、最終的にはシュワルツネガー的身体の実現と享楽にまで至っている。(アーノルド・シュワルツネガーとはカリフォルニア州の知事を務めると同時に、アメリカの有名月刊誌「Muscle&Fitness」の編集長にも就任している。)

そこに至るまでのプロセスを進化論として系譜学的に描き出すことはそんなに難しいことではないはずだ。そしてシュワルツネガー的身体が最後は政治的な次元として機能し始めることにおいても、そこには必然的で宿命的なる内的メカニズムがあるのであり、現在的なネオリベラリズムの展開として、ここに至るまでの事件さえもが、世界史的であり元からプログラムをあらかじめ受けていたものであったのだとさえ考えることができるだろう。

4.
シュワルツネガーの所有する身体性とは、モダンな身体としては、どうにも非合理な筋肉の付き方の印象も拭えず、あれではまるで非機能的で、一体なにに役に立つ身体なのか不明な、筋肉のつけ方をしているように見える。あれではボディビル選考会以外の他の具体的なスポーツ種目について、実際上のゲームとしてはどれにも役に立たないのではないかという疑惑は隠せない。

モダニズムの視点からすれば不気味で非合理な人工的身体である。機能主義的な美の観点からは外れてしまったといっても、しかしそれはそれで、シュワルツネガーの身体とはそのものとして何かの境地は実現されているように見えるものだ。

それ自体の為に膨らませた、胸筋、腕筋、腿の筋肉、背中の筋肉、それらはなんら具体的な用途には耐えないだろうに見える。しかしそれ自身の膨張としては、何かの不確かなる美意識の基準は満たしているように見えるものだ。その審査基準の不確か性において、それはポストモダンの身体であり、筋肉的美学であるかのようにも見えるのだ。あのシュワルツネガーの筋肉的身体もまた何かを代理表象しているのだとすれば、それはまさにポストモダン型の帝国ではなかろうか。