ドストエフスキーからシュワルツネガーへ

1.
重い障害物を担わされて引き摺り、民衆の見つめる道の中で歩かされるキリストのイメージとは、それによって世界のあらゆる受難を背負い込んでは前進するという、象徴的なイメージとなっている。キリストの背負い込んだ重みとは、それがそのまま世界の重みである。

そのようなキリストのストーリーにどこまでも近づいていって、しかしキリストに対しては絶対的な一線を画するとしても、そこの物語システムに隣接した形式で起こりうる、人間的苦悩を逆転的な昇華へと解消するどんでん返しのシステムを、近代小説の物語形式によって実現させて見せたのがドストエフスキーである。

ドストエフスキーとは19世紀のロシアにあって一個の完成されたエンターテイナーであった。彼は何処までもキリストの匂いのする一画へと近づいていく。そこには異様な剰余享楽の存在があることが予感されているが故にである。世

界の獲得とはキリストのストーリーの隣でこそ最もダイナミックにそれを実現しうるという事を、ドストエフスキーは天性の勘で知っていたのだ。そこでは人間のあらゆるネガティブな要素が例外も残さずに、どんでん返しのダイナミズムのメカニズムに巻き込まれて、すべてが洗い流されるようにして、哄笑と感動の渦の中で昇華されるシステムが、歴史的な物語性のシステムとして、既に出来上がっていたことを、彼は歴史的な無意識としても勘付いていただろう。

2.
無意識的な原-信憑性としても、世界の獲得の欲望にはあまりにも感染しやすく、開かれていて、無防備に歯止めのきかないのが主体のどうしようもない宿命だとしても、主体にとって自己の身体とは世界を反映させるための鏡であるという、それ自体が特殊な使命を帯びている存在であり、そのような鏡像的な自己に向かって主体は挑みかかるものなのだ。

宣教師や神父達の洗脳的で啓蒙的な実践としての、巧妙であるのと同時にも愚鈍でナイーブなる嘘にも塗れた教会活動というよりも、この場合、小説家によってなされる神学的実践の方法論とはそれらのものとは一線を画している。

ドストエフスキーの物語世界においては、そのような鏡像的な充溢存在を担っているのは、一つ一つの登場人物のキャラクターである。ドストエフスキーとは彼の身体的な世界観において、ありとあらゆる文学的問題性を自己のうちに含みいれて、それをドラマの形式のうちにして吐き出そうとしたのだ。世界のありとあらゆる問題性を自己のうちに通過させる。そんなことはよく考えてみれば論理的に不可能な技という事は簡単に証明しうるのだとしても、少なくとも充溢して緊迫して高揚した主観性にとっては、そのような勢いのメカニズムを拍車として自己のうちに抱え込むことのエロスに、どうしようもなく取り憑かれていたのだ。

これは後に近代文学のシステムが自己言及的・検証的に明瞭になってくるにつれて、小説家のサガ・性として、容認的なる存在権を確保するようになったものである。つまりそれは比較的新しい、歴史的なる虚構である。

3.

映画「ターミネーター」では、アーノルド・シュワルツネガーの演じるサイボーグが、未来の指導者の母親を殺すために、未来から現代のロスアンジェルスに戻ってくる。このサイボーグが恐ろしいのは、それが徹底的にプログラムされた自動人形として任務を追及し、人造皮膚が剥がれて金属製の骸骨のようになり、両足を失ってもまだ自分の要求に固執し、いっさいの妥協も躊躇もなく、とことん獲物を追い続けるからである。ターミネーターとは欲望抜きの欲動が具現化されたものなのである。
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』2現実界とその運命

TERMINATORというとき、その意味とは文字通り、終結させるものを、シュワルツネガーによってこのとき、意味されるものなのだと考えて差し支えはないだろう。終結させることをプログラムされたロボットが、終結それ自体の為には決して終結を知らずに、着々と近づいてきては、どんな妨害が降りかかろうとも、着実にその任務だけを遂行しようとする、純粋欲動の具現化として実在しうる。

このように剥き出しになった純粋欲動の姿ほど怖いものもまたとないはずだ。それは何に似ているだろうか。開き直ったストーカーや犯罪者の姿にも似ているのかもしれない。いや、それはストーカーや犯罪者よりも更に澄み切った透徹した意識と意志の強靭な強さを持つものだろうか。であるが故にそれは更に怖いのと同時に崇高な景色でもありえる鋼鉄の前進になるだろう。

まさに炎の中で焼き尽くされながらもそれでも前進だけは着実に、思い出したように繰り返してくるターミネーターの賜物である。このターミネーターの姿の原型とはまさにジーザス・クライストをおいて他にないのではなかろうか。それはターミネーターの原型であるのと同時に、本物のストーカーの原型でもある。もちろんそれは痴漢行為しかできないような半端なストーカーとは格の違う精神機械のことである。

4.
何よりもそのような剥き出しの欲動こそが、死の欲動そのものの次元に当たるものだ。猿にマスターベーションを覚えさせると猿は死ぬまでそれをやり続けるだとか、純粋欲動が即、死の本能に直結しているような逸話とはよくあるものだ。欲望とはそれがヴェールを失い始め、剥き出しに近づいてくるにつれて、死の匂いもキツクなってくる。欲望とはそこに衣をまとう着衣の形式的装置としてのみ、それは社会的に機能している。それは見え過ぎても気持ち悪いし、隠しすぎても卑怯である。欲望がそのような形式的装置自体に反逆して壊しはじめるとき、それは自殺的であり、自爆的行為としてのテロルになっていく。

しかし、最終的には世界の獲得とは、そのような自爆および自己否定のエロスとしか交換して与えられないものだというのが真実であるという可能性も強いのであるから、世界の獲得を目指して大ムーブメントの流れを歴史的にも構成しえたシステムとしての、キリスト教文化の実在とキリスト教文化の浄化としての共産主義システムの行く末とは、このような純粋なる前進としての死の本能のエロスを宿命として引き付けざる得ないものも、常にプログラムの一部分として孕んでいたはずではあるのだ。

しかし、そもそもドゥルーズ自身が最後にどんな死に方を選んだのかを思い起こしてみればよい。人工肺の管を決然として抜き去った消尽寸前の灯火にあたる老哲学者の身体的意識とは、最後はアパートの窓から飛び降りることによって、その最終的な強度の獲得としての世界の獲得に向かって挑戦をして、ジャンプしたのではなかったのか。