絶対的に内包不可能なものの実在を巡って

それではニューヨークシティは、なんとかしてまた以前のようにトイレを地下鉄でも使えるように、なんとかしてその中に出入りする人間達のレベルで、「矯正」されて「更正」されるべきなのだろうか。一回都市の内的構成というのがこういう段階まで来てしまったら、それはもう自然な現象性としても引き返しは不可能に見える。現地のニューヨーカーからは、しかしそれでも、不便は我慢して承知しつつも、やはりNYの地下鉄にはトイレはいらないという話が返ってきた。不便であるには違いないが、やたらに不穏な犯罪の臭いのする巣窟を放置するよりは、おもいきって全部そのような不安定な場所は撤去して吝かではないというのだ。ニューヨーカーとは考え方において合理的であり、そして経験的な正確さに基づいているのだ。

ニューヨークの街が再び公衆トイレの存在を復活させるのに果たしてどれくらいの時間がかかるものだろうか?十年、二十年単位の長い道徳的な忍耐の期間、あるいはそれは百年単位で、NYが少なくとも今現在の東京並みの公共圏としての安全性を獲得するにはかかるのかもしれない。しかしそんな途方もない想像をしなくっても、NYはNYとして、きっとこれでよいのだろうと思う。NYはこれとして最も合理的なスタイルなのだと考えるほうが理に適っているように見えるのだ。

本物の自由の根底に在るものとは、むしろ深淵である。底知れぬ暗闇でありおぞましきもの--abjectionの類である。現実の自由と生活圏として常に接して生きているニューヨーカーにとって、そのような自由の本性を見抜く力というのは、経験的に正確なもののようにも見えるのだ。実際にNYcityのように自由を最大限に前面化して実現しうる都市にとって、自由の氾濫とは逆転現象としての恐怖の到来を招くものであることを、これは妄想ではなく、現実の機械的構造としても経験的に把握されているものなのだ。彼らは既にそれが絶対的な外部に当たる実在でしかないことをよく理解している。外部の絶対的な恐るべき自然の威力であるが故に、それは絶対に内面化しえないし、内包や啓蒙や矯正(ディシプリン)の対象ですらない。ただそれは自分にとっては絶対的な外在性として、ある種のバリアの存在によって隔てておくしかないものである。これはなんら理想論や啓蒙論によって理解されうるものではない。ただ経験的な実在として感覚的、感性的に、それはそのようなものであるのだとして、ニューヨーカー達にとっては共同的に措定されて共有されているものだ。