禁煙と文化、あるいは禁煙の文化とは?

ニューヨークは911の時のジュリアーニ市長--あの愛くるしい顔や身振りでも特徴的な人だったが--から、新しい市長のブルームバーグ市長へ変わった。そしてブルームバーグの取った政策とは、NY市の全面禁煙の実現だったのだ。今、ニューヨークシティへいっても、すべての飲食店では禁煙になっている。飲食店の看板を掲げる店でタバコを吸うともはや違法で処分されるのだ。駅でももちろんタバコは吸えない。タバコの値段には、以前から日本でも聞いていたように、多額の税金が掛けられていて、タバコの銘柄一箱買うのに日本円では800円くらいはするのだ。

ニューヨークシティが、恐らく世界の都市の中でも先進的に実現してしまっている、この極端さというのは何なのだろうか?このNY的極端さというのが、これから先しばらくの未来の他の都市の予測されうるビジョン−基準というのを先取りしているものなのだろうか?地下鉄や街角からはトイレが全面撤去されていて、飲食店では全面禁煙が実現されている都市像の姿というのが。・・・

例えば僕は、NYに行く前にはこのNY旅行を大変甘く見積もっていた。冬のNYの厳しさを見くびっていたのだ。東京の街と比較してみようか。東京はなんと親切にも旅行者にとってホテルや宿のわかりやすく表示されていて大変に豊富な街だろうか。NYに、まず前もって宿の予約も入れないで突然いくにしても、東京と単純に比較した場合、幾らでも夜を代替的に過ごせる場所など豊富に考えられるように最初は想像していたものだったのだ。(僕と究極Q太郎は)東京なら、宿が取れなきゃネット喫茶で休めばいいや、とか。デニーズとかジョナサンとか、ファミレスでも休めるだろう、とか。東京で数多見られる安い休憩所とは例えばサウナとかある。しかしNYの場合、現地で日本人から教えてもらったところ、サウナはあるにはあるけれども、いわゆるゲイ達のハッテンバになっていたりするので、またそれはそれで別の意味で「危険」だとか。しかも東京のようにサウナが24時間営業になっているということもないとか。

NYでは(あるいはアメリカの都市圏では)日本の銭湯にあたるような文化はありえないのだ。セキュリティに過剰に敏感になっている人々の意識からすれば、人前で自分の露骨な裸を晒すとかいう習慣は考えられないものである。実は銭湯の文化というのは、日本に特有の共同体的なある安定性と信頼性の証しだったのだ。(僕はNYから帰国して早速昨日は近所のスーパー銭湯へいって疲れを落としてきた。銭湯というのは文化的にもなんとすばらしい日本の遺産なのだろうと改めて実感したのだ。アメリカでは公共の温水プールとして、類似のリラクゼーションの施設はありうるのだろうが。もちろんそれはプールなので、利用者にとって水着の着用は前提である。)NYで僕らが使用したバスルームとはちっぽけないわゆるユニットバスにすぎなかった。旅行中にこの旅の疲れを癒して吹き飛ばすために、どんなに銭湯やサウナが恋しかったことか。日本ではサウナも格安で一般的に開放されているのに。・・・

このようなセキュリティ的な過剰性とは、実はNYの所有する肯定的な文化的性質にも時には反し、抵触している。NYのNYたる文化を今まで歴史的に生み出していたものとは、人間交流の多様性と解放性である。しかしいつからかNYとは窮屈な街になりつつあるのだ。ブルームバーグ市長のNY市全面禁煙主義とは何故市民の立場から受け入れられたのだろうか?それは何よりも、NYの街の衛生上のいかがわしさ、不潔さに嫌気がさしている市民達の意識によるものだと思われる。町の浄化を効果的に実現するためには、はっきりいって全面禁煙ほど効果のある方法もまたとないだろう。駅にも地下鉄にも一切タバコの吸殻が落ちていなくなるのだ。街や路上にも滅多に吸殻が落ちていない。清掃局の立場からもなんという清掃コストの削減にそれは寄与できることだろうか。

しかし僕のような立場のもの、喫煙者に取ってみれば、タバコの吸えないカルチャー、ナイトライフのイメージというのは、ちょっと想像できないものでもある。文学にも音楽にも思想にもアートにも、タバコとタバコの煙の実在というのは、重要で不可欠な要素のようにしか思えなかったからだ。これから先にまだ新しいNYの文化というのがあるにしても、それは今までとは全く異なったものになるだろう。だって、タバコの煙と無縁なるジャズとか、タバコの存在しないジョン・コルトレーンの音楽とか、マイルス・デイビスの音とか、一体どのようにして想像しうるのだろうか?もう二度とNYシティは、マイルスやコルトレーンに匹敵する文化的価値を生み出すことは出来ないだろう。僕らはNYパンクの発祥の地として有名なライブハウスCBGBのバーも訪れたのだが、CBGBも全く他とのご多分に漏れず、見事に店内禁煙だった。軽い絶望の眩暈を僕は禁じえなかった。僕らが目の辺りにしたCBGBからは、とてもあの伝説のパンクロックカルチャーが再来しうる場所には思えなかったのだ。パティ・スミス、ブロンディ、ラモーンズ、テレビジョン、ニューヨークドールズ、・・・それらの伝説が今のその場所では、とても嘘のようにありえないものに見えたのだった。・・・

CBGB
http://www.cbgb.com/

セキュリティ的な障害物が媒介としてやたら数多に出てくると、それらは端的にいって純粋な人間交流性を疎外しはじめる。セキュリティで武装して守られているのはいいが、実はその守られている空間の中味とは空虚で空っぽであったりする。あるいは秘密裏のサークルの連結として、かろうじて人脈の交流の流れは守られていたりする。

しかしNYとは一体いつからこのような都市の状況になってしまったのだろうか。大昔から防衛・自衛とセキュリティの観念についてはアメリカ人は怠りはなくしっかりしていたものだったとも思われるのだが。NYが文化的な盛り上がり、高潮を迎えた時期を50年代や60年代だと考えてみよう。50年代にはNYにはマイルスやコルトレーンの存在によって語られることが出来るジャズの絶頂期があった。それら文化的な高潮を準備した流れとは第二次世界大戦の戦前から既に脈流としてはずっとNYに続いてたはずだ。ヘンリー・ミラーの北回帰線は39年に出版されている。NYの象徴的建築物としてのエンパイア・ステイト・ビルディングとは30年に建設されているものだ。それらは第一次世界大戦戦勝国としてのアメリカ資本主義経済の最初の帝国的繁栄、および29年の大恐慌という株式市場の最初の崩壊点を迎える資本主義経済のアップダウンの波の激しさの中から揉まれて登場してきた産物だ。60年代にはNYにも左翼的な革命運動の盛り上がりが見られる。対応する文化とはボブ・ディランのような存在であり、ボブ・ディラン的なプロテストがムーブメントとして、学生運動、社会運動、革命運動としてニューヨークシティの中で発展を遂げる。70年代にはジョン・レノンオノ・ヨーコとともにNYに移住しジョン・レノンもまたNYのrevolutionaryな側面の文化的な顔として定着する。しかしそのジョン・レノンがNY−アメリカの自由であるが故のその副産物としての、拳銃の凶弾に倒れるのは80年の事件だった。

左翼運動がアメリカ的なシチュエーションの中においても特にNYで高潮に達するとき、その頃までのNYというのは、まだ自由の都市的な氾濫によって、その自由自身の逆転的な現象としての、犯罪とセキュリティを巡る攻防戦というのが、まださして顕在化していたとは考えにくい。オープンネスとしてのアメリカ的精神は偉大な寛容性としてアメリカ的にも持続していて、そしてNYでは革命運動の実在とともに高揚していた。アメリカもNYも他者に向かって開かれていた。他者へ開かれているというシステムにおいて、それがアメリカの誇りうる肯定的な文化的所産であった。