the City of the Empire State

先週からニューヨークにいっていて月曜日の夕方に東京に帰ってきた。NYという街をはじめて見てきた。NYに五泊の旅だったのだ。まだその興奮も冷め遣らぬのだが。面白い物事も数多あれど、それらはすべて同時に論理的に何故そうなってるのかという事情についても説明可能だと思った。マンハッタン、NYの地下鉄、バス、町並み、ストリートの構造、…。マンハッタンというのは小さなものだと思う。自転車があれば一日で軽く一周できてしまうだろう。そのくらいの狭さの中に凝縮して色んな物事が詰まっているのだ。同時に歴史も詰まっている。

よく今まで他所の場所の話として、遠い場所の伝説として僕の中には入ってきていたものだった。それら伝聞の記憶を自分自身の中で、NYの具体的な光景を目の前にするにつれて、一つ一つ解きほぐしていった。日本に帰ってきてもはや記憶の中に存在しているNY Cityだが、今でもずっとオートマチックに、その一つ一つ解きほぐしていく作業は続いている。無意識的にも、既に潜在的な流れとなって実在している記憶の層においても、それらはこれからも熟成されつつあるだろう。…

最近の論争的なポイントに重なるところについて、気がついた事からまず記しておこうか。…一つ、僕らがNYに行く少し前に、あかねのお客さんで、やはりNYに一人旅をしてGround Zeroを見てきたという女性が一人いたそうだ。社会運動系の某女性で、僕は最近彼女に会ってなかったのでこれは又聞きの話なのだが、それは彼女がNYの地下鉄で、ウンコをもらす人というのを、はじめて目の前で目撃したという笑い話だったのだが。改札口を通るときに、前の人がウンコをもらすのを見てしまった。NYで、目の前で人がウンコをもらす瞬間を生まれて始めて目撃した。・・・この逸話は、最初に聞いたときは、さすがにニューヨークみたいな場所だから、色んなだらしのないひと、ダメな人も多いんだろうな、程度の感想でしかなかったのだが、実際に、ニューヨークの地下鉄的現実を見るにつけて、実はこの笑い話というのが、ある構造的必然性から導き出たものであることがわかったのだ。

実はNYシティを歩いていて気付くことは、この街には公衆トイレが全然ないじゃないかという事である。これは日本の東京などに慣れている身にとっては異常な事態にも見える。前ニューヨーク市長のジュリアーニの時に(ジュリアーニ市長はちょうど911の事件の最中に市長だった人なので、その顔もニュースに頻繁に出てきてお馴染みの人だが)地下鉄のトイレは犯罪の温床であるということで、セキュリティ上の問題から、全面撤去してしまったのだ。だからNYで地下鉄に乗っていてもトイレには出会うことができない。地下鉄のトイレはおろか、街の中にも公衆トイレとして解放されてる場所はなかなか遭遇できない。だから街を歩いていてそういう風にもようしてきたときは、面倒だが、少々の出費を覚悟してカフェにでも入るか、お願いして店のトイレを使わせてもらうにしてもチップを払うことを覚悟しなければならないだろう。(緊急でも繁華街の中だったらマクドナルドなどのファーストフードの店のトイレを、さりげなく店内に侵入しつつ無料で使ってしまうこともできるだろうか。日本でもこれは常套的な手段としてよくやれるものだが。他にも、BARNS&NOBLEなどの、元祖・日本のジュンク堂ともいえる大型書店でサービスのいいところなら、無料でトイレを借りれるだろうか。)

はっきりいってニューヨークの地下鉄というのは寒々しい場所が多い。日本の地下鉄に慣れている身からすれば荒廃しているといってもおかしくはない。汚いし、設備も古いし(日本でいえば60年代や70年代の東京の地下鉄のレベルが今でもそのまま進歩していないという感じか)駅によって建築のレベルや清潔さも異なるのだが、一つ隣の駅であるというだけで、イメージや汚さの度合いが全然異なっていたりするのだ。それにまず駅の中に暖房装置など入っていない駅が多い。ニューヨーク自体が、歩いてみればわかるが冬は大変に寒い場所である。しかし街中の路上でトイレを見つけることは大変に難しい。もしそういう気分になったなら何処か建物の中に入って見つけなければならない。けれどもNYの気候というのは、いつ人間の生物的構造がそういう状態になってもおかしくはない場所ではあるのだろうて…。

昨今の思想的な課題として「セキュリティ」という問題圏が浮上している。しかしこのセキュリティ論というのが何処から起源して出てきたのか、何故都市論と並行する形で出てきたのかという背景について、これはNYのようなアメリカの都市の実情を知る人でないと、まず理解できないのではなかろうかと思ったのだ。(マイク・デイビスの場合は、要塞都市LAというように、ロサンジェルスの都市の具体的構造から、このセキュリティ・ファシズムとでもいったようなアメリカの現在的に抱える病的な社会現象を記述している)

セキュリティを巡る問題というのは、まさにアメリカの都市的社会が到達してしまった飽和としての病的な次元、都市的な社会構造の臨界点を巡って導かれているのだ。都市論に止まらず、国際社会やグローバリズムについての軍事的、防衛的な問題としても、それは多いに食い込んでいる。しかし、何よりも生活の中の具体的な差異、具体的な実感の経験として、セキュリティ−意識の過剰なる浮遊という病的現象性というのは、この現在のNY的現象(や、それに類似するLAなどのアメリカ都市の実情)から語らなければ、その本質は掴めないものであるはずだ。

セキュリティによって過剰に武装された町並み。僕の感想ではニューヨークというのは文化的な生産の拠点としては、実はもう終わっている都市なのではないだろうか?という感じを受け取ったのだ。

僕らがNYの旅先でお世話になった女性は、マンハッタンから少し外れたブルックリン地区に3LDKのアパートメントを三人の人間でルームシェアしている。全く普通の庶民的なアパートメントではあるのだが、その部屋に入るためには五個の鍵が必要で、だから住人は常にその五個を持ち歩いていなければならない。アパートの門を潜るのにまず二つの鍵が必要である。そしてアパートの入り口に入るためにまた二個の鍵が必要である。そしてアパートに入ったら(アパート自体は昔からの古い建築物を何度も改造して使用しているといった感の古典的なアメリカの庶民的な建築であるのだが)、細い階段を丁寧にあがっていって、二階が彼らの部屋になっている。その部屋のキーが一個である。これはなんら高級マンションの話ではなく、全く普通の最も庶民的な住居の話なのだ。部屋に到達するのに鍵が五個。むしろ安い庶民的な物件だからこそ、鍵の数が増えてしまうということも逆にあるのかもしれないが。

ブルックリンの下町で、のどかでいい場所だが、周囲は殆ど黒人の居住が多かったと思う。裏には小学校があり、その隣には図書館もある。駅からは歩いて5分もかからないくらいだ。小学校から出てくる子供たちは黒人ばかりだったし、駅前の商店街でも黒人の姿が多く目立った。NYは人種や階級によって街の棲み分けも自然に出来上がっている構造だし、乗り物のレベルにおいても、階級によって乗り物が違うように見える。一番金のない人たちは、はっきりいって地下鉄を使うのだ。

日本だったら、このレベルの住居でまず鍵は一つしか与えられていないか、多くても二個か、あるいはせいぜい三個くらいが関の山だろうと思う。一回鍵を置き忘れるかなくすかしたら、一回につき100ドル程度費用がかかるらしい。(日本円では一万円くらい)

これら鍵の鉄の重さというのが、まずニューヨークシティの一つの局面、一つのイメージでもあるのだ。街を歩いていると、どこでも大きくて頑丈な鍵が取り付けられているのを、建築的な特徴としても発見することができる。アメリカの鍵のスタイルというのは、まずそれが大きくて頑丈で異様な存在感、重厚感を放っているということ。

自転車が止めてあるのを道でもよく目にするが、自転車の鍵というのもこれまた特大のチェーンである。重い鎖がみな一様に、止めてある自転車に、グルグル巻きにして結わい付けられてているのを目にすることができる。これに比べたら日本の自転車キーのかわいい事というか、あんなのまず鍵としては全く無意味で機能しないのだろうというのがわかる。日本のアパートや団地の前には共用の自転車置き場がよく備え付けられているが、そんなものはまずNYではありえないものだ。共用で公共の駐輪スペースなんて。NYでは自転車の保管というのは、車体丸ごと抱え上げて、それでアパートに帰ってエレベーターにも持ち込んで自分の部屋まで持ち帰って入れているのが普通で常識なのだ。