対抗の論理Ⅱ

1.
対抗の身振りは主体にとって何かの基準を与える。しかし、それは何に対抗する主体なのだろうか。悪に対抗する善。資本主義に対抗する共産主義。帝国に対抗するマルチチュード。資本と国家に対抗するX。・・・対抗の論理は主体にとって同時に対抗すべし敵の対象を常に呼び寄せる。そのような意味で主体と対象は表裏一体である。主体と対象の関係というのは何かの想像的な体系性にもとづく。

社会運動が何かの対抗の対象について潜在的なレベルにおいて、大きな抽象性をもちはじめるとき、それは単なる表面的なテーマについての社会運動に止まらないで、左翼運動という意味をもちはじめるのだろう。左翼的な対抗の対象は運動にとっての大文字の目的というのを与えて提示する。

2.
対抗はまた単なる抵抗とも違う。抵抗するとはまだそれだけでは、社会の構造自体の変革には届かないと考えられる。抵抗が真に根本的な意味を獲得するためには、対抗すべき対象の元にある構造的な問題を見抜き、その問題の根源を捉えることによって、対象の政治的な舵取りをも主体的に奪還することによって、構造自体の変革も目指し、政治的主体として自らが堂々とそこに取って代われるとき、それは対抗としての明瞭な運動の意味をもちえる。対抗運動が単なる政権交代に止まらないとき、表面的な単なる交換可能性に止まらないで、根本的な政治的システムの構造的な変換も意味したのだ。

対抗運動に大きな持続的な意味を与えるものとは、起源は宗教革命の思想の中で考えられていたものであろうが、その後の共産主義と左翼運動の考え方として大きく展開を遂げて進化したものだ。しかし、そのような対抗運動の意味付けとは、もはやどんどん薄れつつあるように見える。このような喪失とは社会の肯定性にとっては喪われていく嘆くべく事態なのだろうか、あるいはこれは社会体の成熟にとっては正確で当然の進化なのだろうか。

ここまで来れば明らかな事だが左翼の本質とは何かに対抗することなのだ。しかしそれは何に対して対抗しているのだろうか。悪に対して?もちろん悪に対して対抗というのもあるが、あるいはそれの抽象的な境地にあたると見られる善悪の彼岸という境地に至る場所から、ある種現世的なシステマティックな機能に対して、攻撃を加えるのと同時に、その救済をも目指し、政治をより開かれた人間たちの手の中に、奪還しようと試み続けるものだ。

3.
左翼の目的とは自由の獲得を巡るイデオロギー的な形式である。しかしここで思い出してほしいのは、「アメリカ」という国家的理念自体が、やはり自由の獲得を巡って国家的に確立されたイデオロギーだったということだ。それが当たっているのか外れているのかもいつも適当で自分勝手だが、アメリカは常に自らが標的とすべし敵の姿を悪の対象として絞ってきた。

現在では、ブッシュの口から出るそれとはaxis of evil「悪の枢軸」としての北朝鮮イラクの国家のことである。かつてレーガンソビエトなど東側陣営のことを悪の帝国と呼んだ。レーガンのそのような発想の基準となっていたのは、実はスター・ウォーズの映画のイメージだった。アメリカにとって建国時の悪の対象とは、イングランドであり、インディアンだった。(アメリカに降りて来た白人は、大陸の原住民をインディアンと呼んで最初信じて疑わなかったが、しかし彼らは本当はまったく「インド人」などではありえなかったのであり、白人たちの想像的錯誤だったことは明らかだったのだが)

次のアメリカ人の国家的な標的目標としての悪とは、自国の内部に生じて、それが魔女狩りのための「魔女」だったり、自分たちが連れて来たはずの奴隷の反乱としての黒人階級だったり、そして次はコミュニズムが悪であり、そのようにしてアメリカの理念とは常に対立すべき悪の標的の変遷の歴史でもあったのだ。そして現在ではアメリカ人はかつてのインド人の錯誤にも似た大間違い、大量破壊兵器の存在について想像的な錯誤を繰り返したのだ。

4.
アメリカ自身がこのとき、何か左翼の性質と似ているように見える。なぜならアメリカは自らを常に正義の味方のヒロイックでナルシスティックな鏡像として演じようとしているから、それは左翼の歴史的で構造的な機能性としての演劇像とも似ているのだ。アメリカ人とは西部劇のヒーローのことである。

アメリカ人にとって自ら考えているのは、自分たちこそが世界史的な革命劇の完成であるということである。一方、アメリカの置いてきた起源にあたるヨーロッパ、大陸の土地の中にある左翼という機能とは、敵としての抽象的な資本主義の像を、思想的、理論的に模索し続けてきた。今ではその敵の名は、単に資本主義というのではなくて、「帝国」というものにまで高まった。

5.
主体をアイデンティティとして自足させるものとは、主体の対抗すべき対象である。つまり主体にとっての敵の存在である。それは主体にとっての鏡像的で想像的な関係性の世界をシステマティックに構成している。左翼の主体にとって、そのような対抗すべし対象の像とは、かつては資本主義者やブルジョワジー、貴族、皇帝などと、具体的な対象性でもありえたのだが、今では左翼にとってのそれとは、完全に抽象的な実体になっているのだ。

すなわちそれが、帝国であり(帝国主義からは進化したという帝国の概念)、資本と国家であり、というように。罪を憎んで人を憎まず、の倫理主義的な精神性の姿とは、左翼的には理論的なものとして、ここまで進化したのだ。