対抗の論理

1.
社会運動の運営の実体というのが必ずしも左翼でなければならないという必然性はない。アメリカの例を見ればそれは明瞭である。アメリカ人は基本的に行動的な社会運動を好む。政治的意識も政治運動へのコミットメントの欲望も比較的には旺盛である。単にリベラリズムの前提であっても、社会についての改良運動を持続していく試みとは可能なのだ。アメリカ人にとってそれら社会運動の在り方がその先の革命的な次元にまで至らないからといって、しかしそれはリベラリズムにとって変われるそれ以上の社会システムが実在しえないという論理的な事情を、アメリカ人が感性的に、直観的によく体感して理解しているからということでもあるのだ。

アメリカ人の社会運動の形式が最終的に共産主義や左翼運動に向かわないのは、彼らにとって論理的に正確なのだ。アメリカ人にとってはボイコット運動の形式も消費者運動の形式も、反戦運動も、ガン・コントロールの運動も、すべてがリベラリズムの形式の中で収めてすることができるのだ。

しかし、人々のアソシエーションの欲望の政治的な形式としての社会運動の実体が、それでも左翼主義に拘り続ける傾向というのが、一部では根強く残り続ける事情の内容とは何なのだろうか。

単にテーマによって限定された社会運動、政治運動であることだけではそれが飽き足らずに、更にメタレベルでの大きな超越性としての左翼運動の形式が欲望される事が、日本など、あるいはアメリカ以外の国家では---特に先進の資本主義国家の中で、いまだ見受けられるという理由とは何なのだろうか。

2.
左翼は宗教の消滅した段階の時代の、更なる最終的な超越性の根拠、最後の漠然として曖昧ではあるけれども、超越性についての共同的な構成として、最終的な社会的な根拠としての牙城を作り上げているように見える。資本主義的な社会構造から不利益を受ける人間の層が人口的にも一定数この世にいる限り、左翼運動の形式も社会的に要請されて、持続していくという社会構成の全体的なメカニズムがあるのだろう。かつて左翼運動とは全体的にそれを基礎付ける根拠として、社会主義共産主義を持っていた。

共産主義については様々に解釈学が分かれていて、必ずしもそれが社会的に不可能な構築ではないのだとしても(何故なら文学的な共産主義さえもがありうるのだから)、国際社会の全体的なレベルでいえば、そのような旗を掲げるのはとても無理な範疇にあたるだろうという、全体的な社会構成の進化の段階に、もはやある。全体性としての根拠の不在となった左翼運動の生態とは、それではこれから何処にどのように向かっていくのだろうか。

明らかなのは、左翼運動のような全体的で超越的なアソシエーションの形式にどうしても向かわざるえないような社会的な階層や、個人的な生態というのは、いまだに存在し続けているし、当分の間もそれはなくならないだろう。しかし左翼運動自体は根拠付けにはいつも乏しいものとしてしか、もはや実在していないのだ。何故それは左翼なのか?そもそも左翼とは何を意味しているのか?なぜ運動の中で漠然とした対抗的な標的を、人々は集団的に欲望するように定められるのか。そのような対抗的な姿を指して左翼運動というのだろうか。

4.
全体的な統合性を運動について構成できるシステムが左翼運動にはやはり必要であるという観点からすれば、「単なる共産主義」に変わることの出来る新しい全体的で統覚的なシステムを、それでは歴史的に発明しなければならないということになる。柄谷行人が開発しようと試みたNAMとは、そのようなポスト共産主義の全体システムを模索する試みに当たっていたはずだった。

NAMとは限りなく共産主義運動、左翼運動の延長線上に自らを位置付けて意識しながら、同時にそれら過去の形式から抜け出て、これからの未来に向けての新しい全体性としての左翼システムを完成させることが目指されていたものだ。柄谷行人の試みとは、人間の地球上の社会構成において、自由主義−資本主義の自然主義的な社会体構成を超越論的に再構成しなおせるシステムとしての、ポスト共産主義のシステムが、論理的に存在しえるのならば、それは正しいということになるだろう。しかしポスト共産主義が、可能な社会構成の在り方において、論理的に不可能であるということが証明できれば、NAMとは歴史的にいって特別な意味もなかったということになる。(むしろNAMの一連の経緯とはコミュニズムの終焉というのを、逆説的に明示しえたという点で意味があったということになるのだろう。)

このとき「ポスト共産主義」というのは、実在する多様な左翼的な活動、運動体について全体的な統合性、方向性のパースペクティブを与えうる統合概念ということである。(そのような統合性のことをNAMではもっと厳密に超越論的統覚というのだが)社会システムの構成において、共産主義に変わるべく新たなる超越的な全体像のシステムは必要とされているのだろうか。そしてそのようなものが歴史的な意味を持ちうるのだろうかというのは疑わしい。

5.
認識論的にいってもテクノロジー的な歴史的成果の集積は、人間社会についての生物学的で物理的な限界の枠組みも明らかにしうる。革命の歴史の終焉とは、人間社会についての進歩的信仰史観の終焉であり、未来主義的な超越性の理念の終焉でもあった。大きな物語としての革命のストーリーはもちろん悉く終焉にあたっている。肯定的な意味でのリベラリズムとは、個人にとっての小さな物語としての革命的なストーリー、つまり変革的で社会改良的な筋を、多数、限りなく横に連結してアソシエートしていくことにある。そのようなストーリーの束のボリュームを増やしていくことの中から、全体的な社会体の構成の向上を目指すべきものになるだろう。