対抗の論理Ⅲ

酒井隆史は、左翼が最終的には無根拠的な根底として直面することになる次元について、次のように記述しているものだと思われる。

<運動>において徐々に中心をしめるようになりフェリックス・ガタリジル・ドゥルーズたちを注目させた側面は、次のようにまとめることができるかもしれない。他者に変化を要求すること--敵とぶつかること--を第一目標としない、という「今日まで歴史を揺るがせた革命とはまったく異なる」(ガタリ)異例の運動のかたち。たとえ<運動>が他者と正面から衝突するとしても、それは副次的な問題にすぎない。<運動>はなによりもまず「自足的」だった。「自足的」とはいっても、必ずしも排他的、閉鎖的であるということと等しいのではない。<運動>自体が目的、すなわち「生の形式」(の実験)となるという意味で「自足的」なのである。・・・敵があるとしたら、それは生の形式を拒んだり、あの手この手で骨抜きにしたり、ときには荒っぽく抑圧してくる力や人間ということになるだろう。だがそれは運動の意義からしたら二次的なものにすぎない。少なくとも<運動>の主要な傾向は、なにかイシューがないと、敵がいないと--逆にいえば被抑圧者がいないと、「不幸」がどこかにないと--闘えない、こうした否定的/反応的な論理(これはスロヴォイ・ジジェクがPCの論理としたものにつながるだろう。社会が悪くないと--抑圧される「マイノリティ」がいないと--自分の存在理由を失ってしまうから常に強迫的に「悪」をみいださざるをえない疚しい良心)とは無縁であろうとした。
「自由論」 新しい権力地図がうまれるとき

左翼にとって、自己目的化した左翼の肯定論理というのは、最終的にこのようなロジックの形式にまで達成したのだろう。左翼が何故左翼であってそれが左翼運動の形式を求めるのかという自己肯定の論理の最終的な形式といったものがここにある。左翼とは結局、左翼のための左翼として自体的に出来上がったのだ。

しかしここで先の左翼主義の起源についての考察に戻れば、左翼とは何よりもそれが、人々のアソシエーションの欲望として、形式的に欲望されているということ。そして左翼が社会の中からなくならないというのは、時代の社会構造から不利益を受ける人口的な層というのが一定ありつづけるからだだということになる。

集まってきた人々というのが左翼の形式を欲望するというのであれば、そこにはたとえ嘘でも虚構でもいいから、何かの対抗対象が措定されているのだ。左翼であることがまず欲望の次元から根底的には無根拠に奔出するものだとすれば、そのような対抗としての敵の姿形の形象というのも、実は無根拠に導きだされえる。

そのような敵の対象さえもが欲望されて要請されてくる根源というのは、自己主張したがる欲望のアイデンティティの形式的で鏡像的な構造的必然性にあるからだ。だから常に左翼の主体的な定立には、なにかトリッキーなもの、騙し絵的なものが忍ばされているともいえる。左翼自体が一個のゲームであったという根底的な仕組みはもはや隠し切れないものとしても共有されているのだ。

左翼にとって、「対抗」の身振りとは、根底的には洒落のような部分が含まれていることがもはや隠し切れないものとして自覚されている。そこにシビアに真剣になることももはや出来ない時代の必然性があるのだし--70年代までの左翼というのはそれに比べて、ただひたすらに真面目であると自己にも他者にも言い聞かせ続けなければならない悲壮な振りをした不器用さを伴っていた。

そのような不器用さや虚偽の真面目さ、自己欺瞞についての欺瞞のそのまた上の欺瞞という悪循環は他者への糾弾主義から、ヒステリー、そして内ゲバの暴力的自滅の悪循環までをうんだ。それらは70年代の左翼の自家中毒としての顕著な傾向だった。左翼が根底的な洒脱性をニヒリズムとしてというよりもユーモアとして含むという事に捉えなおさなければならくなったとき、左翼が歴史的なシステムとして現在点から相対化して把握しなおせるものだという柔軟性の意識が必要とされる。

故に我々はもはや、左翼運動の形式について、それを相対化できる視点から取り組まなければならない。必ずしもそれが左翼でなければならない必然性というのは、もはや、いつも、ないのだ。しかしそれでも常に、過剰に、先行的に我々にとってありえる次元とは、アソシエーションしたいという、個々にとって接続のレベルでの、外部に抜けたがっているという欲動の流動性の必然的構造としての、根底的には盲目にもあたる欲望的過剰の存在なのだから。

この盲目的ではあるけれども確実に社会的な欲望の形態を、なにかのシステマティックな形で、解放しなおさなければならないのだ。常に必ずしもそれが左翼である必要はない。そして対抗運動である必要もない。我々にとって原初的な過剰としての欲望を、新しいアソシエーションの形式を発明してく中において、再構成して解放しなおすという必然性だけが、ただ純粋に存在しているのだ。