資本と国家

1.
新しい帝国の概念というのをネットワーク型権力の構成だと捉える。帝国が単なる帝国主義と異なるのは、帝国主義が特定の国家的な表象において自己中心化された目に見えやすい形成を伴うのに対して、帝国主義からは進化したという次の形態の「帝国」とは、グローバリズムとしての特定の国家表象の踏み越えないし廃棄をも伴う。

その中心化の求心力の作用、及びそれに伴う強制力の発動、簒奪のシステマティックな発動というのが、ネットワークの暫時的な形成として、常に責任主体と責任表象の不在として機能しはじめる。明瞭な正体としては不可視なる、権力のオートマチズムとしてそれが起動し始めることにある。

新しいグローバリズム−資本主義の帝国的統一の形成力について、帝国の基礎的な構成要素と捉えられる資本と国家の観点から見たときに、それらはどのように関与しているといえるのだろうか。

2.
柄谷行人は資本と国家が統一的な形成力として現象する作用について、その本質を、キャピタル−ネーション−ステートの三位一体であると規定している。

今日において、資本制経済、国家、ネーションは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、各人が経済的に自由勝手に振る舞い、そのことが経済的な不平等と階級的対立に帰結すれば、それえは国民(ネーション)としての相互扶助的な感情によって打ち消し、国家によって資本の放縦を規制し富を再分配する、というような具合である。つまり、資本=ネーション=ステートというボロメオの環は、柔軟且つ強靭である。そしてこれは一九世紀後半、先進資本主義国において確立されたのである。
「帝国とネーション」1-2ボロメオの環

資本主義と国家体制を繋いでいるものとは、何かの想像的な表象である。国民的な教育にとってそのような想像力的な作用とは、文学的なシステムの機能に基づいている。「文学」の社会的な機能、文学が何故、体制の国民的な維持に切っても切れない不可欠の関与を為しているのかという理由は、そのような道徳的な想像力として体制を根底性において支えうる道徳的および感情的な維持を、国家的な表象として結び付けておかなければならないという必然性による。

資本主義の力は常に国家的な表象の枠を飛び越えようとする。それは非道徳な経済力的差異化の作用として、国家を飛び越そうとするときもあれば、国家的な奉仕へのボイコットとしてそのような自由な飛び越えが起きることもある。国家の地盤の上に、構成する国民の編成として一定の人間を縛り付けておかなければならないという経済的な必然性は、道徳教育、感情教育、およびそれら想像力的な操作を可能にする文学のシステマティックな機能にこそ依存しているのだ。それが国民教育というものの必然性であり、効果である。

3.
国家主義の力というのが、男根主義的に、マッチョ的に高揚の欲望を与えられるとき、それは帝国主義の表象を持つ。19世紀から20世紀の帝国主義の時代の現象にとって、帝国主義とは国際社会の国家的力学の作用として経済的な必然性を伴っていた。食うか食われるかの、まだまだ野蛮な国際社会の軍事力的な構成の流れにとって、自らも帝国主義化しない道を選び取ることは、近代国家としては死を選び取ることに等しかった、占領されて植民地化されるか、自らが帝国主義的な主体として指揮を取るか、やるかやられるかの二者択一しかありえないような、まだ野蛮な段階の国際社会の構成であった。

もはや帝国主義的な屹立があからさまに過激に起きるような事態は、国際社会の構成の現実性にとってはありえない段階に進化している。あからさまな帝国主義はありえないとしても、アメリカのような一国主義が独走を果たすときは、もっとネットワーク的に取引や調整を巧妙に果たすことのできる効果主義的な方策が練られる。

4.
ネグリとハートが帝国という概念について示すとき、それがアメリカ帝国主義よりも先に進み更に根源的に作用しうるグローバリズム・ネットワークの権力構成だというのならば、現在の一国主義的なアメリカの帝国主義的独走というよりも、その次に来るべき、国際協調としてのグローバリズム・ネットワークのほうが、はるかに彼らの新しい帝国概念というのには適っているように見えるだろう。アメリカの独走態勢ではなくてむしろ国連的な国際協調の段階に入ったものこそが、ネットワークと多国籍企業の支配体制は帝国的なものとして完成されうることになる。

フランスのドヴィルパン外相のような考え方(ドゴール主義を礼賛するのと同時に適度にインテリで思想通である)を見ていると、そのような国連主義的な協調体制さえもが帝国概念の範疇に当たるかもしれないというのは、わからなくもないのだが、しかし、アメリカの一国一極体制よりはまだましなものを作り出すためには、少なくとも国連主義の体制に、国際的意思決定を持っていったほうが、よくなる可能性はあるに違いないのだ。

このとき、ネグリとハートの帝国概念とは、どうも具体的な表象としてはそれを明瞭に示すことの出来ないもどかしさ、及び根本的ないい加減さというのは隠せないものだろう。(つまり帝国というのは、なんとなく帝国、という感じで、明瞭なものというより、日常風景やメディア的なイメージの中にさり気なく忍び込んでいるような権力的なオートマチズムのことをいうようになるだろう)

5.
それ、とそこに示されるもの、その支配体制が、帝国的であるのか、あるいは否か(つまりマルチチュード的であるのかということ)というのは、統合的な権力の構成において、それが支配構造として簒奪的で階級的でマッチョ主義的な精神性に依存するものであるのか、あるいは構成的で民主的で対話的に実現される構成的権力のあり方であるのか、という二通りの態度表明、態度決定について、倫理的に審査しようという審級を示しているにすぎないものだろう。

故に、帝国−マルチチュードの審査原理というのは、本当は至ってシンプルなものであるのだ。それと示される力能の構成について、要するにそれが、エゴイズム的であるのか、あるいは民主主義的であるのか、という人間的なシンプルな態度=精神の構成を問うているだけなのだから。

しかし同時に、権力についての問いの形式について、それがエゴイズム的であるのか、そうでないのか、という問いの仕方というのは、ヨーロッパ社会的にいっても最も伝統的なものである。(つまりキリスト教的な形式である。キリスト教的といっても決して自己犠牲的なものではなく近代的に整備されてよく媒介されたヨーロッパ的道徳の形式である)その問いの形式は最も伝統的で単純でわかりやすいが故に、知識や倫理にとっては普遍的なのである。

全く同様に、資本と国家のあり方、存在論について問うときも、究極的にはそのような問いの審級に、もってきうるものだ。資本の資本主義的なあり方、存在論について、それはエゴイズムでないのか、そうでないのか(リベラルな資本−主義なのか)と問うこと、国家の存在論にとって、それはエゴイズム(男根マッチョ主義=帝国主義)でないのか、そうでないのか、と常に問うて審査し続ける審級なのだ。資本の存在論において、それが帝国的なのかそうでないのか、と問うことが出来る。国家の存在論についても、それが帝国的であるのか、そうでないのか、と問うことが出来る。これは倫理主義のメカニズムにとって、最もシンプルに抽象しうる原理だ。

「帝国」の概念については、それを象徴的なものとして説明するのには、常に不可能な困難が付き纏うことになるのだ。何故ならこれが具体的にそうだと名指してしまうことは、常に決定不可能にはぐらかされる、裏=ネットワーク的な連結性、機械的連鎖が次から次へと出てくるからだ。帝国の存在とは、世界観の構成にあっては、想像界に関与するのと同時に、日常生活のレベルでの搾取や簒奪や身体性的に降りかかる不幸の数々としては現実界的な次元に直結するものとして考えられる-捉えられるものだ。

それは象徴的な実在としては、いつも不明瞭かもしれないが、現実的にはよく出会われるものであるのと同時に、それを見出すためには想像的な世界像を、媒介的なスコープとして、経由するしかないものであるということになる。つまり、「帝国」とは、象徴界には、ないものなのだ。帝国を象徴的なものとして指示することは、できない。

(近未来SFの映画やアニメなどに見出される終末論的な世界像のテクノロジー機械に覆い尽くされたロボトミー的な世界は、そのような帝国の像についてあくまでも想像的に、具体的な説明を与えるだろう。)