一国社会主義幻想の幻滅から、一国平和主義の現状まで

よく左翼を自称するような知識人で、こんな話を嘆き口調で言うのを聞くのだが、何故、日本では反戦運動が起こらないのか?アメリカやヨーロッパの国では、イラク戦争でも湾岸戦争でも、立派に反戦運動がずっとあって、市民は普通にデモを街中でしているのに、何故日本ではそれが起きていないのか、と尤もらしい口調で言うのを聞くことがある。しかし、この時僕は不思議に思うのだが、日本で反戦運動が現状で起こっていないのは、当然の成り行きにしか思えない。これの答えは簡単である。何故なら、日本は憲法九条で守られてるわけでしょう。他所の国でどんなに戦争が起きていようが、日本だけは、それに参加もしないが、どうせ巻き込まれもしないと、皆が思っている。

他所の国は、戦争に参加せざるえなくなるが故に、場合によっては徴兵も受け、戦争が何処かで起きるというのは、それが拡大すれば、確実に自国の人間も戦争に何らかの形で参加せざるえなくなるという条件を背負っているわけだ。それなら、人々は本気で反戦運動に向かうわけである。戦争が何処かで起きるということは、国際政治の構図の中で、戦争が大きくなれば、自国の民も、手を染めなければならいような状況も近づく。いわゆる、自然権的な軍事力を備えた通常国家においては、反戦運動とは切実なものである。例えば、イギリスはイラク戦争に参加した。イギリス人の若者は、何割か確実に、何らかの形でこの戦争に手を染めなければならなくなった。イギリス人にとって、イラク戦争の問題とは、切実に深刻な問題である。ウィリアム王子まで、シンボルとしてか過ぎないものとしても、イラク戦争に従軍するとか報道が発表される。イギリスに住む人は、イギリス人である限り、それは当事者的な問題なのだ。子供か、友人か、知り合いかは、確実にイラクに従軍するのだし、その中の何人かは、やはり死んで帰ってくることを覚悟するものだろう。そんな状況ならば、国家の国民は、本気で反戦運動をする。イギリスで反戦運動が大きいのは当然である。それは国家が軍隊を所有していることと矛盾しない。軍隊を正規に抱えているが故に、いつ本当に戦争が起きるか、という事情については、国民は敏感にならざるえない。

日本人が、他の国の国民に比べて、決して鈍感だとか間抜けだとか云う事が、あるわけはない。ただ生活環境の条件として、日本人は、自分たちが、あるいは自分たちだけが、世界の何処かで起きる戦争について、常に無縁であると、信じ切っていられるのだ。これは逆説的な事態ではないのだろうか?九条で守られているが故に、日本では戦争に鈍感なのだ。これは一国平和主義の弊害とでもいえるものではないのだろうか。

世界は同時的に、国家の相関関係における平面上に、常に存在している。一国だけが平和を「無条件に」保障されているという条件は、関係性によって常に流動しているはずの、国際関係とその平和的保障において、何かチグハグなものがある。一国社会主義、一国共産主義国家の建設も、この国際政治上の力学からは、有り得ない想像だったことが、後になってから証明されたが、一国平和主義というのも、元来似たような性質があったのだと思う。世界で平和が実現されるときには、やはり同時的に、相互の関係性において、漸次的に保障されていくしかない。一国だけ、軍事を免れているのは、ずるい、というよりも、今まで、国際政治の関係上で、日本は軍事において去勢をして隅に置いていた方が、都合よく回るという駆け引き上の考えから、日本には軍備を禁止したり、また逆に軍備を突然煽ったりを繰り返していたというものにすぎない。アメリカの立場からは、日本の軍備というのは都合である。中国と韓国の立場からは、日本を軍事関係において、絶対的に抑制しながら、物を言わせなくすることは、彼らの覇権的な意識である。

九条があろうとなかろうと、社会における暴力の度合意識が薄まるという状態、社会における暴力の位相を正確に見出し、社会の正確な管理下に暴力をおくという在り方は、別に関係ないはずである。九条があれば、逆に、本来既にそこにあるはずの暴力と戦争(の加担)について、いつまでも私達は知りませんと、シラを切り続けていることができる、というのが実態であるのではないか。暴力の社会的な位相を、正確に見据え、その管理の必然性を、生活上の意識から見出すには、国家が国際関係上から見たとき、どのような必然性を担ってしまうのかという次元を知るためには、一国平和主義という、やはりそれは世界史上の意識としては、惚けたとでも言い得る、奇妙な不均衡意識、不自然であるが故の特権性の意識を、返上したところから、新たに世界平和の意識を、他の国家との共有という観点から、考え直すのは、ここからの出口に当たる選択では、あるのだと思う。

結果戦争は起きるかもしれない。(というか、常に既にそれは起きているが。日本が参戦しないか呆けているだけで。)しかし、このぬるま湯というか、透明な牢獄というか、欺瞞的意識としての平和と、偽善の裏返しに当たる内的陰湿さとしてのイジメ型政治が、どうしようもなく渦巻く現状で、丸山真男への怨念を言い分にした誰かの意見ではないが、意識の退廃からの出口というのは、この国際政治への、平等的で分担的な復帰ではないのか。一国平和主義の正体とは、一国社会主義と同様の虚構であったわけだ。もし九条が廃棄されれば、日本人は、逆に本気で反戦運動に取り組むだろう。そして一国平和主義が、目に見えない遣り切れなさの壁に囲まれた、フラストレーションを醸成する嘘っぱちでしかなかった歴史を知る主体としては、本気で、反戦のための国際的な連帯、連携への可能性へと行動を起こさざる得なくなるだろう。そうではないだろうか?繰り返し言うが、国が正規の軍隊を所有している事と、反戦へ向けての具体的な取り組みと交渉が国際的に実現されることとは、本来矛盾しないだろう。偉そうに自称左翼を語る、日本人はなぜ反戦運動をしないのかとか、高みから語り続ける、気持ちの悪い左翼知識人に対してをはじめ、改めてそれを知恵の次元に投げ返すべきだと思うのだが。どうなのだろうか。一国平和主義には意味がないのだ。

社会の中の現実的な暴力の指数とは、基本的に、国家が軍を持ってるか否かという事情には関係ないはずである。むしろ、そこに既にある暴力の姿に、鈍感になったり、無責任になったりするような意識の裏返り方のほうが怪しいと思われる。でもそういいながら、弱者を暴力で囲い込んでしまうことに、やはりなるのか?暴力のアイロニーとは、事実上には何処にあるのか。少なくとも、現状を思い切り変えてみるには、実践的な平和を考え直す立場からも、九条的建前を外して見るのも、一つの手ではあるのだろうと思う。もう一度、あえて古典的な政治理念の原点に立ち返っていえば、平和主義の実現とは、世界−同時的にというのが、最も正しい獲得になることだろう。軍備レベルの国際的な縮小とは、世界−国家−同時的に、相互的、双務的に、平等に、漸次的に、というしか、現実には有り得ないものだ。