幽霊は必ず出るところを間違えない

デヴィッド・リンチの手法とは、内的現実をそれ自体で生成させることに成功させることにあるといえる。内的現実の事実性とは、イメージによって力を与えられ、そこに独自の生産の道を開くことになる。特に映画とは、内的現実にとってその重要な手段である。『inland=empire』というコンセプトとは、そのデヴィッドリンチの方法の存在を、最も直截な在り方として、指し示すものである。

内的現実の生成を、イメージの自己解凍する力に乗っかって、とことんまで追及するとき、その展開は奇妙なものになる。それでもそのイメージの連鎖が、他者と共有可能な体験、意味不明なものに陥らずに、作品としての研ぎ澄まされたリアリティを放つとき、それは内的生成の固有の力学に沿って運ばれたイメージとして、そこにある客観的な法則性に、ヴァーチャルでありながらも厳密に沿って展開されたイメージの運動であったことは、理解され共有されうる。それが客観的な法則性の力に則って、裏切らずに展開された運動であることを証明するものとは、結果的に産出されたイメージの持つ力、美しさ、崇高さ、強度が証明できるのみである。ただ内的にのみ動かされた運動と、客観的な力に沿って産出された運動を区別するポイントとは、出来上がったイメージの質である。作品に成功していると云う事は、そこでは即ち、オブジェクティブな法則を捉える事にも実現していると云う事に、自ずから成る。

外的な拘束をとことんまで無視しながらも、厳密に内的現実の力だけに従って世界を構築するものだが、それが芸術作品としての質を実現しうるとき、内的現実の独走のように見えていた、そのイメージの示す運動とは、結果的には外的現実との、迂回された、メタレベルの通路を繋ぐものを発見するものとなっている。芸術作品における、内的現実の追求の掟とは、それがどんな手段に頼って行われた運動であろうと、結果的にこの外的現実との、別の在り方での接続が為されていなければならない。もしそれが為されていなければ、その作品とは、単に理解不可能なものとして止まるだけである。よって、結果的には、それが作品として提出されたものとしても、それはそれ以上に流通し、外的な展開をすることもないし、作品としても残らない。他とは繋がらない。

内的現実とは、内的力によってのみ純粋に切り開かれ、展開されることを、欲望しているが、それが実際に為されたとき、それでもどうしても孕んでしまう、そしてそれは、どうしても消し去ることのできない痕跡として、内的イメージの中には残り続けるものとして、外的現実を引き摺っている。外的現実をどうしても引き摺らざる得ないことは、純粋な内的現実の展開力にとって、その純粋さの限界の点にある。内的現実がどうしても孕む外的現実の関係性、そしてその外的現実の発見について導くスタイルとして、黒沢清『叫』を見ることができる。

黒沢清『叫』において、この映画が一つの論理的前提に則り、その論理の在り方を証明するために組み立てられている全体であることを見ることができるだろう。それは、幽霊とは必ず、出るところを間違わない、というテーゼである。この論理前提が必ずしも正しいとはいえない、これはあくまでも一つの仮説なのであるが−というのは、出るところを間違えて出る幽霊というのも、世の中には多分に居る可能性は大きいので−、これを一つの前提としてのみ捉えた上で、この映画の全体的構築を把握するべきであるのだが。

幽霊を発見し、その存在を認識する主体とは、この映画の中では役所広司である。役所広司演じる、湾岸の警察署に勤務する刑事の存在であるが、赤い服を着た女の殺人事件を切欠にして、彼は、自分に付き纏う幽霊の存在に遭遇することになる。役所は何故、自分が幽霊に取り付かれているのか、その理由が分からない。本当は、赤い服を着た女を殺害したのは、自分ではないのか?そんな疑いが、自分の中にも宿るし、同僚の刑事からも疑われる。

あなたと私は、出会うはずでした、とは、夜中に、役所の寝ているところに出現した、赤い服を着た女の幽霊が言うことである。しかし役所には、その理由が全くわからない。『叫』という映画において、幽霊と出会うと云う事は、主体が自分の無意識に遭遇することに他ならない。幽霊と出会うと云う事は、主体の無意識にとって、自分が過去にやったこと、そしてそれを今では何らかの形で、意識が隠蔽を続けている、過去の事実によって、そのフィードバックが、幽霊との遭遇という形で、現れているのだ。

湾岸の埋立地で起きた、赤い女の殺害は、役所がやったものではないということが、映画の進行過程で明らかになるが、それでもまだ同じ幽霊が、役所が独りでいるときには現れ続ける。あれは俺がやったのではない、なのに何故まだおまえは俺に取り付くのか?役所は事件の周辺にある謎の解明に向かうことになる。結局、幽霊の出現する起源にあたる、湾岸地域の歴史に眠る事件を解き明かしながら、他者の殺害という事実において、役所は、自分の記憶の中で、隠蔽されている次元、過去に自分のやった行為について、意識が全く忘れてしまっている−余りにもそれ自体が強度の体験であったが故に−、意識によって否認されているが故に、全く別の、誤った前提の上に、今の自分の意識世界が出来上がっていたことに気付くことになる。

つまり、役所は、やっぱり自分で女を殺していたのだが、それは役所にとって、普段付き合い会話していた対象としての自分の恋人であり、ずっと対話していると思っていた当の相手は、彼の脳内対話の相手だったのであり、彼の想像世界では正常に進行していた、彼の人間関係とは、現実にはすべて虚構であり、抑圧しているが故に生じていた彼の妄想世界であったことを、役所の演じている刑事は、自分自身を認識する主体として、思い知らされることになる。映画の途中で予告されたように−その予告を発したのは、役所がカウンセリングにかかった警察の精神分析医を演じたオダギリ・ジョーであったが−、幽霊とは、やっぱり出るところを間違うと云う事はなかったのである。

幽霊は、正確に出没していた。幽霊のイメージを借りて、役所に取り付いていたものの正体とは、彼自身の無意識であった。それは彼が完璧なる抑圧によって、意識の平面上から消し去っていた存在の代替としての幽霊の出現であり、主体が抑圧していた事実とは、彼が過去に他者を殺していることであり、主体自身は、その他者がまだ生きているものと思い込んでいて、普段から脳内的な想像的な対話の対象として、反復していた人物の存在であったわけだ。このようにして、映画『叫』において、認識する主体の内的現実の展開は突き破られて、主体が過去に絶対的に、決定的に犯していた事実としての、外的現実の関係性にまで、到達したわけである。

内的現実の奇妙な循環世界、想像的な円環世界を規定していたものが、外的現実の決定的な事実であったことに、映画は到達した。ここで主体は、現実との関係を見出し、受け入れるとともに、主体にとっての奇妙な想像的現実を作り出していたものの正体が、主体が世界内存在として、立脚するポイントにとって、構造的であり、宿命的な他者の次元の剥奪に関与してるという、根本的なる世界性の亀裂を、普遍的な事実として示し、受け取ることを可能にしている。赤い服を着て、見捨てられ、不遇な死に方をした女の怨念とは、主体と意識を巡るこの世界性を、根源的なレベルで規定しているものである。そして役所の演じる一人の刑事は、この根源的な事実性=世界性を、生き残った主体として、素直に受け入れている。

幽霊は出るところを間違えない、というテーゼの意味とは、幽霊の出てくる由来とは、主体の内的現実に還元しきれず過剰に染み付いた、外的現実の痕跡をこじ開けることによって出てくるものであり、その外的現実とは、即ち主体にとっての無意識そのものであるのだが、無意識の実体が言語と同じく構造化されており、厳密な機械状の連鎖するシステムとして、主体が眠っている間も動いているのと同じように、主体の内的現実と内的意識にとって、その外部とは必ずあるのであり、外的現実もまた、正確な機械状の実在として、主体の側からの隠蔽、否認体質に関わらず、確固とした論理構造として存在しているという事実である。幽霊とは、この映画では、外的現実の確実さの構造から由来して、やって来る。幽霊は、主体と現実の正確な関係を知らしめさせるものとして、強迫的に到来している。それは、内的現実に埋もれている主体にとっては、外部の関係が確実にあるのだと認識させるものとして現れている。