『ブラッド・ダイヤモンド』

この映画はなかなか面白かったのではないかと思う。というのは去年、日本で紆余曲折の上に公開されたということで奇妙に日本ローカルのヒットを遂げたホテル・ルワンダという映画が、アフリカで起きている戦争のメカニズムが先進国からの引き金で動いてるという現実を訴え直視させるためという意味はあったものの、映画としての出来として考えたとき、実は全然面白いものとは思えなかった。せいぜいが予算を少し高めに組まれてロケをやったテレビドラマ程度の出来であり、現実にありえるヨーロッパと資本とアフリカ紛争の連動するメカニズムを明らかにするというより、単純でわかりやすいメロドラマをそこに仕組むことで、さして意味があるとも思えない凡庸な感動のメカニズムを再認させる機能のほうが、その映画にとってはメインになっているような作りになっていたので、見て逆にシラケた気持ちになったものだった。それに比べれば、今回の『ブラッド・ダイヤモンド』は、現代アフリカ的な現実にベースを置きつつ、映画としての面白さをハリウッド的な技術を駆使してとことん追求しているので、単に現実の辛さが、人間的な惰性による退屈さに常に基づくものであることを丁寧に映し出すだけではない映画として出来上がっている。

ホテル・ルワンダという映画は、アカデミーのアワードでは結構いい線までいったのに、日本では配給が決まらなかった。それを危惧した日本の若者が、ブログで上映運動を起こして火がつき、実際に上映まで漕ぎ着けたばかりでなく、ミニシアター系ではヒットにまでいったという話だった。しかし日本の配給会社の人は、最初にこの映画を見たとき、これは映画としての出来は全く大したものでないと思ったから、単に配給を見送ったのだろう。映画の持っていた意味性は抜きにして、配給の感じたものとして、それはそれで正しかったのだろうと思う。逆に、これが配給を零れたという事実の方が、神話的事実となって、ネット上の噂話として一人歩きし、元の映画に神格化的な意味を与え、結果的な話題とヒットに繋がったわけで、たぶんこの映画は、最初に配給が落としていなければ、こんなにヒットはしていなかっただろう。話題と噂作りの逆説が、日本でだけ奇妙にアイロニカルな神話作用として成功したのだ。

テルルワンダの場合、まだよく伝えられていない現実といった次元に基礎を置きつつも、何故その上で為された物語の語りが、かくもステレオタイプで詰まらないものとならざるえないのだろうか。それは実際に起きたという悲惨な虐殺事件であるが、現実とはそこに近づけば近づくほど、現実自体の凡庸さと退屈さに直面してしまうからであるだろう。現実の持つ悲劇的なメカニズムとは、必ずしもそんなにいつも奇妙なものでも痛烈なものでもなく、あまりにも惰性的で無視されがちで退屈であったが故に、その悲劇は放置によって生じたのだという、見れば見るほど、描写を使えば使うほど、現実の中の現実性に過剰に接近してしまう。悲劇は確かに起きたけれども、その意味とはかくも情けないものだったという事実からくる退屈さの上に、無理矢理、文学的なドラマをでっち上げなければならないという配慮から、結果的には、西洋を再び退屈に反映させたような、凡庸なメロドラマをそこで構築させてしまうことになる。

しかし04年度のルワンダの辺りから、それまで映画界でも表現されることがタブーであったのだろう、西洋社会とアフリカの裏の連動性、搾取的な繋がりというのが、公式に映画的な場面として、表現される機会を開いたものであるという事実はあるのだ。そういう意味では、ルワンダは一つの皮切りであり事件だった。そこから『ラストキング・オブ・スコットランド』というアミン大統領を題材にした映画だとか、『ブラッド・ダイヤモンド』のように、アフリカ題材の映画が製作されうる一連の流れを作り出している。

ブラッド・ダイヤモンドとは、いわゆる紛争ダイヤと言われるものである。西洋社会、そして先進国の社会で消費されるダイヤモンドには、アフリカでそれが採掘される過程に、血の戦争が絡んでるケースが、ままある。ダイヤモンドの利権を巡る、アフリカで起きている紛争の現実について描き出そうというリアリズムが、この映画では目指されている。監督は前には、ラストサムライを撮ってる人らしいが、スペクタクル的な映画のコツをよく押さえている人で、なかなかよくその物語を見せてくれる。

舞台となったアフリカの国は、シエラレオネという黄金海岸の一部に位置している国で、政府側とRUFという統一革命戦線が競ってダイアモンドの採掘を奪い合っている。革命戦線の実態とは、アメリカのヒップホップを大音量でかけながら、ジープで村から村へと移動し、村では少年達をさらい、少年兵として育てるのだが、少年はドラッグ漬けであり、それで組織の中で殺人の方法を覚えさせられる。革命戦線の中で読まれ崇拝されてるのは、やはりゲバラ毛沢東だろうが、アフリカにある革命を標榜する戦闘的なアナーキズムの実態について、これは説明している。必ずしも彼らがこの映画で描かれてるような残虐な実態は持たないはずだとは考えられるが(その点、この映画は左翼勢力を相当に歪曲な戯画化として捉えている)やはりそんなに理想を投影しうるようなアナーキズムの群れではないという事実性は描き出してるものだ。そしてアフリカのアナーキーな左翼戦線に何か理想を投影しうるとしたら、それもまた何か西洋の倒錯的投影にあたるのだろう。

村で伝統的な仕来たりに従いながら真面目な生活を営んでいたところが、突然、ヒップホップを大音量で流しながらトラックで襲来した革命戦線RUFに侵略される。背が高くサッカーのうまい真面目で信仰心の厚い村民の男にとって、彼の子供は革命戦線にさらわれてしまう。一部の村民は虐殺し、労働力として使える村民はもっていき、少年はドラッグ漬けにし、兵士として再教育し、大人はダイヤモンドの採掘にあてる。

アフリカで育った白人男で、元外人部隊の傭兵で、今はダイヤモンドの裏ブローカーをしている男を、ディカプリオが演じている。しかし僕は正直、この映画を見てはじめてディカプリオという俳優を、いいと発見したほどである。ディカプリオは、ビーチのバーで、ジャーナリストとして紛争ダイヤの取材に来ている、ジェニファー・コネリーと出会う。彼女に対して次第に自分の生い立ちを語っていく。アフリカで起きている紛争は、反共の名目で起きているにしても、実際には、西洋の送り込む軍と共産勢力の間で争われているのは、利権を巡る取り引きであり、ダイヤモンドの問題もその一つである。

残酷な功利主義的駆け引きの中で、政治的な偽善の応酬を股に架け、からだを張って高額ダイヤモンドをロンドンのブローカーにまでさばきにいく危険な仕事を続けてきたディカプリオが、最後の仕事として、革命戦線の採掘場から逃げ出してきた男の隠してきた100カラット級でピンク色のダイヤモンドを探しにいき、革命戦線に奪われた彼の子供も取り返そうとする。この辺の展開は、70年代の有名なアメリカ映画『ディア・ハンター』を思わせるものだ。ディアハンターの、ロバート・デ・ニーロクリストファー・ウォーケンの関係が、この映画の、村人の男と彼の奪われた子供という設定にあたっている。

ディアハンターの場合は、ベトナム戦争で、ベトコンの中に置き去りにしてきたウォーケンを、ベトナムから敗退して逃げ帰ったデ・ニーロが、数年後にサイゴンまで取り返しにいくという話だった。ベトコンの中に置き去りにされたアメリカ人は、サイゴンの場末の賭博場で働いていた。彼が操るゲームは、ロシアンルーレットであった。記憶を失ったまま危険な賭博で働いているウォーケンの記憶を取り戻すべく、デ・ニーロが彼とさしでロシアン・ルーレットリボルバーの拳銃に弾を一個だけ込め、回転させ、順番にこめかみにあてて、発砲されなかったら勝ち、発砲して自爆したら負けという賭博である−をやりながら、最後に、デ・ニーロとウォーケンが、順番に拳銃をこめかみにあてながら向かい合い、ウォーケンの記憶が戻ってくるところで、自爆してしまうという話だったが。やはり革命軍の中で、村の男が自分の息子を発見するときも、子供は少年兵たちとポーカー賭博に興じており、後ろから男が手をかけても、もう父親の記憶を失っていた。

ブラッド・ダイヤモンドでは、ダイヤを巡る徹底的に打算的な取り引きの中、裏切り行為の限りなく連鎖していった果てで、登場人物たちが逆に人間的なものの記憶を発見し、浮かび上がらせるようにできている。ハリウッド的なスペクタクルの方法論を、アフリカに投影させると、このようなものになるという事なのだが、やっぱりこれを見て納得するのは、ハリウッド的にシステマティックな方法論の強固さであり、この構造と生産の体制は、既に歴史的に完成されてあるものであり、それはベトナムにもっていこうとアフリカにもっていこうと、舞台を何処に移しても−もちろんそれは宇宙の惑星でも、未来や過去の地球でも−相変わらず、人間的なものの記憶として再生させることが可能なのだ。別に何回見ても、やっぱりそれは面白いと再び感じさせてしまう、歴史的な形成としてある構造=システムの、根強い生命力だろう。ヒューマニズムの構造分析とは、この映画的な生産システムを巡る方法分析と云う事に、まさに他ならないのではなかろうか。ヒューマニズムこそがスペクタクルでありうる。ハリウッド型生産システム=スペクタクル=ヒューマニズム