『バベル』

今月の1日は近所のシネコンで話題の『バベル』を見ていた。毎回月はじめは多くの映画館でサービスデーということでロードショー作品が千円均一である。先月の1日はそういえば『蟲師』を見ていた。その前の1日はというと、これは『それでも僕はやってない』をたしか見ていたと思う。午前中の最初の上映回にいったのだが、バベルはそこそこ人が入っていた。GWで休日ということもある。シネコン自体はなかなか繁盛してる感じだった。

ちょうど日本公開が始まったばかりのこの映画には、上映中に気分を悪くする人が出るというので、ニュースでも取り上げられているところだった。見ていてわかったが、それは単に映像上の効果である。上映から1時間20分のところで気分の悪さを訴える観客が出るとニュースでは言っていたが、確かに作品中のイメージの流れとして、ここの段階で生じる映像の歪みというのは、なかなか凄いものがあるのだ。菊地凛子が演じる聾唖者の女子高生が公園で男友達の連中とおちあい、ウィスキーの小瓶を回し飲みした後に、ディスコに入る。聾唖であり、聴覚障害の女子高生が体験するクラブの空間だが、それを意味するために、大音量のディスコの曲(EARTH WIND&FIREだったと思うが)が聞こえたり聞こえなくなったりを断片的に繰り返す。ディスコの暗闇にスポットライトの色彩が瞬く。女子高生が公園でブランコに乗り揺れている。若くて酒にも遊びにも慣れていない女の子が酩酊する状態というのを、これらイメージの断続的な繋ぎ合わせの上に、画面自体にも大きな歪みを入れながら、酩酊そのものがスクリーンからそのまま飛び出してきて、独立して歩き出すかのような効果を作り出すことに成功している。見ていても、自分の眼球から後ろ側の脳にかけて、大きな力で捉れて捻りを加えられているような奇妙な感覚に持っていかれる。編集上の効果とはいえ、これはなかなか凄いなという体験だった。聴覚障害の女子高生に訪れたのと同様の悪酔いを、観客とスクリーンの距離を越えて共有させてしまうという感じだった。

これは明らかに作品内にとって、必然的で不可避的なイメージの展開形である。ニュースで言われていたように、これを見て日本の観客に、気分を悪くしたものが何人も出たのだろう。しかしこの映像上の効果は、明らかにやってしまったものの勝ちであり、制作した監督側の勝利なのだ。聾唖と若さという二つの障害性の実在を、第三者的な観客に見事に、ストレートに無媒介的に共有させてしまったのだ。この気持ちの悪くなる空間性そのものが、個人的な障害性の内的空間なのだ。もしそれが普段は気付かれていないというのなら、隙間のように陥没した場所に実在していたはずの不快さの普遍性について、見事にこの映画はリアライズさせることに成功させたのだといえるだろう。

『バベル』という映画の意図とは、別々に断続的に存在しているように見える、地球上の距離の隔たった幾つかの事件に、それらを繋ぎ合わせていく思いがけない横断的な線の存在を、映像の時間的な進行上に次第に明らかに示していく。そのラインは、モロッコアメリカ、メキシコ、東京、と繋がっている。このラインが繋ぐ場所に共通する特徴とは、普段は忘れられている、見落とされているといった次元に存在している、他者の苦悩である。

可視的な視界からは陥没した場所に実在している、個人的な懊悩がその過剰さの故に、表層上の世界の舞台へと向けて、断続的で変則的なサインを送り続けている。モロッコの片隅の村で、古くからの宗教的仕来たりで暮らし続ける集落の家族の息子、モロッコを旅行するアメリカ人の夫婦は、豊かではあるけれどもうまくいっていない、彼らのアメリカに残してきた家で家政婦として働く不法移民の存在、不法移民の故郷としてのメキシコ、そして東京で障害を抱える女子高生たちのグループ・・・彼らにとって、陥没した存在にあたる過剰性、存在の過剰さゆえに救いを求めている苦悩が、一発の銃弾、モロッコの村の少年が、過剰さゆえに偶然放ったライフルの銃弾から、一つの横に崖てしなく長いラインを繋ぎ始める。

東京で、聾唖の女子高生が抱える解決できない過剰な性欲に悩む姿を、菊地凛子が見事に演じている。コミュニケーションの表面上の舞台から追放されている身の上から、絶望的なほどに切実な繋がりを希求している、若さの懊悩である。一見普通の女の子に見える聾唖の女子高生グループだが、街で男の子に出会い、自分が話せない、言葉を口にしようとするとき獣の呻き声のようなものを出してしまうことを悟られると、すぐに去られてしまう。化け物を見るような眼で見られたよ・・・−トイレで彼女たちが手話で本音を語り合っている。よし、本物の化け物を見せてやる!と菊池は手話で言い放ち、制服の下からパンツを脱ぎさってトイレのゴミ箱に捨てる。カフェの席に戻ってきた菊地は、仲間の女子と談笑しながら、離れた男子のグループに目配せし、そっとスカートの中から自分の股間を閉じたり開いたりしてみせる。男子のグループは遠くからそれに気付き、ニヤニヤしながら面白がっている。

徹底的に報われない存在の過剰さ、それは言葉が通じないことからくる苦悩として、バベルでは描かれている。モロッコの集落にとって、言葉で通じないものは拳銃で表現されていた。アメリカ人の夫婦にとっては、言葉でうまく通じなかったものを、旅行で解消しようとしている。メキシコ人の不法移民の家政婦の女にとっては、言葉で通じないものを埋め合わせていたのは、愛情であり介護的労働であった。モロッコの少年が使ったライフルの起源は、元は東京の聾唖者の父親がモロッコ人に与えたプレゼントだった。

バベルにおいて、言葉が通じないが故の苦悩であり、コミュニケーションの陥没であり、これら背負われている障害であるのだが、それでは彼らが言語を獲得すれば、これら苦悩は、存在の過剰とは果たして乗り越えられるのだろうか。映画『バベル』によって位相的に明らかにされていくのは、むしろ絶対的に言語外として取り残されていくところの、人間的事実であって、これら絶対的な疎外という現象に直面している場所を目の前にして、新しい言語の獲得とは、別に最初から目指されてはいないのだろう。言語の限界から始まる問題意識であっても、最初から言語自体にさほどの信用も期待も寄せられてはいない。言語外を突っ切っていけるコミュニケーションが、そこでは要請されているのだ。他者に向けて、言語外を通り抜けることのできるものの可能性とは、要するに、働きかけのことでしかないのだが、しかし『バベル』で目指されているコミュニケーションの可能性とは、決して大文字の政治には還元も回収もされないもの、ミクロな行為としての、他者への働きかけであり、その可能性、その領域、その隙間を、内的に発見しなおすことである。

アメリカ人の夫妻、うまくいっていない憂鬱な夫婦関係で、肉体だけは頑丈に見えるような夫を演じるブラッドピッドと、それに対して華奢で白く細く今にも崩れ落ちそうなからだつきの妻であるが、バスで砂漠を移動中に、村の少年が放った弾丸を偶然、肩に受けてしまう。病院も遠い砂漠の中で、現地の村の小屋で、緊急の手当てにあたっている。救援の部隊がなかなかやってこない。彼らは取り残されている。妻は生死の境を漂っている。出血多量で死にそうである。夜がすぎ朝を迎える。瀕死の状態の妻は微かな意識の中で目覚めている。夫が抱きかかえながら、彼女はパンツを濡らしてしまった、漏らしてしまったと告げる。トイレをすることができない。夫は鍋を手にして、彼女を抱えながら、スカートの下にあてがう。パンツを脱がせてやる。夫の腕の中で、妻は静かに用を足すことができた。モロッコの砂漠の中の村は、夜明けを迎えつつある。静かに用を足す音が響いている。

銃と言葉、この二つの物が、基本的に人間社会をシステムとして完成させ、可能にしている。それは聖書に書かれたようなバベルの世界の必然性である。しかしこの映画の意図とは、銃にも言葉にも頼らない、働きかけの存在によって、他者と繋がること、救いを作り出すこと、しかもその働きかけとは、明らかに目に見えないけれども、ミクロで内的なものとして発見されるものが、本物であるのだというメッセージを出すことに−あるいは単に確認させることにあるのだろう。この映画のスタンスとは、自ずから既に古典的な枠組みであり、結局は聖書的であり、あるニヒリズムが世界の必然として振るう脅威に恐れを抱きつつ、それらを個人の内的でミクロな倫理として乗り越えていこう、またそれ以外に真の救いとは、他にないのである、という事実を淡々と語るものになっている。この映画の成立とは、すべてにおいてあまりにも聖書的である。また聖書的な世界像を確認することだけのために、この映画の現代的な設定は構築されているというような感じだ。