JAPAN−70年代末ロンドンパンクスと美学的コミュニズムの隆盛

70年代後半のロンドンの文化的多産性というのは凄いものだった。それは基本的にロックの進化の流れを中心に連動して起きていた文化運動であり、ファッションからイメージ−映像・映画まで、極端な地点にまで究められ、実験され、爛熟した文化の姿がそこにあった。ロックムーブメント、ムーブメントの観点から捉えられたロックにとって、その生成から進化の過程として、60年代後半からの初期的生成を担ったのがアメリカ発のヒッピーカルチャーならば、70年代後半よりロックの生成の担い手とは、ロンドンに端を発するパンクムーブメントだったといえる。

パンクは一方で音楽の最終段階としての、音楽の政治化の方向に持っていかれるものの、それ自身がスタイリッシュなものを究める運動として、ロック自体の自己言及的な形式化を究めていった。一方でクラッシュやジャムのように政治化として突出する傾向があれば、もう一方でパンクムーブメントの歩んだ道とは美学化である。このロックの美学的な形式化、スタイリッシュなモデルとイデアを洗練させていく動きとして、ジャパンやベルリン発のニナ・ハーゲン・バンドなどが出現することになる。ロックの美学化および政治的な美学化として出てきたのが、ボーカルのデヴィッド・シルヴィアン、ベースのミック・カーン、ドラムのスティーブ・ジャンセンといったメンバーによるバンドのJAPANである。

JAPANの登場は画期的であった。JAPANのサウンドが成立した起源を見れば、それはやはりグラムロックであり、そこに黒人音楽経由、リズム&ブルース的な味付けを合成させたともいえるが、JAPANが現代風俗の流れからして、歴史的に元祖のヴィジュアル系バンドともいわれるように、ファッショナブルであること、スタイリッシュであることを彼らの音楽的な存在理由とするものだった。しかもJAPANにとって、その美学的スタイルが目標としたものとは政治性であり、70年代後半の文化的土壌にとって、JAPANの標榜するスタイルとは、美学的コミュニズムのセンセーショナルな登場となったものだ。

Japan Promo Video - Life In Tokyo

確かに、デヴィッド・シルヴィアンのウエットで憂鬱なボーカルに乗せられたグルーブは斬新なものであった。デヴィッド・ボウイ未来派的なスタイルを前提にして築きあげられたものであるとはいえ、70年代末にはデヴィッド・シルヴィアンによって、そのmachinery−機械主義的に前衛的なスタイルの音楽性とは完成されたのだ。

なぜ彼らが自らの音楽を語るにあたって「JAPAN」を標榜したのか。もちろんそこにはロンドンから投影された明らかなオリエンタリズムの意図があるのだろうが、パンクスの延長上に、中性的なジェンダー、両性具有的なセクシャリティを実現する、西洋の批判としてのobscureのイメージを究めるとき、彼らは日本的な能面の文化から、化粧を巡る概念の異なる方法論として、日本文化の仮面性というのを発見したのだろう。

JAPANの活動は78年から80年代初期にまであったものだが、最終的に彼らはアルバム『TIN DRUMS』のコンセプトにあるように、ある種欧米人特有の毛沢東主義ファッション、赤いファッションとしてのコミュニズムに、自分たちの根拠を進めた。アルバムのジャケットには毛沢東の肖像写真が飾られているが、彼らのイメージするマオの肖像が、もはや出口を失っていくように、JAPANのスタイルの音楽というのも方向性を消失させていった。最後の灯火にそのアルバムが完成度の高いスタイリッシュを実現させてるとはいえ、白黒の毛沢東肖像画を後に、バンドとしてのJAPANは解散して、それぞれに別のマイナーな方法によって、自分たちの形式化と実験を推し進めるということになった。

最後にJAPANのメンバーに参加したのが、日本の土屋昌巳一風堂)だったことは、イメージとしての日本、表象としての日本が、実際の日本人ギタリストの参加によって、内的な亀裂として打ち砕かれ、散逸していく音楽的有様となったものだったろう。デヴィッド・シルヴィアンはその後の歩みとして、現代音楽家としての彼の実績を究めていくことになる。