ブコウスキーの哲学的潜勢力

最近、ブコウスキーのことをよく考えているのだが、現代小説のスタイルが、ブコウスキー的なミニマリズムに収斂していくことは、小説という構造の運命を考えた時に、必然的に、ある種の極として生じた事態であったはずだ。そもそも小説という形式が、現代人にとっては、どういう時に必然的であり、真に読むことが必要な事態になっているのだろうか。そもそも小説とか、特別生活のサイクルの中で要求されていない。家の中、そして個人の部屋のスペースには、テレビがあってビデオがあり、オーディオがある。個人は何処で、言葉を手に入れるのだろうか。そして生活の中における思考の位置にとって、活字とは何処に生じ、何処に欲求されるものなのか。現代人であっても、やはり活字は必要である。活字に脳が触れることは、十二分に欲望されうる。しかし、現代人にとって、本を読むにしても、それは何らかの形での哲学であり、批評であり、簡単なものが好きならばエッセイであるこのとのほうが、脳を引き締める、思考を明確化する、思考を刺激して充実させるには、最も直接的な媒体であり、言葉と本と活字の在り方であり、そこが小説というのは、どうも思考の距離を不必要に迂回させるもののように思えてしまう。

小説は別に、思考にとってさして重要な媒体ではないのだ。思考に必要なものとは、まずイマジネール・・・潤ってよく流れる、潤滑な想像力の媒体としてのイメージであり、そしてそこに的確な区切りを入れる、分節化しうる言葉の流れである。流れを引き締めて統握させてくれる、的確な概念の言語である、それらを説明してくれる定義の束。イメージと概念ということで、脳の働きを考えた時、それでは、部屋の中で、人はビデオと哲学書、或いは批評書だけで間に合ってしまうではないか。そういう本が難しいというのなら、軽い形式としてのエッセイでもよい。いずれにしろ、小説というのは、どうも中途半端であり、役立たずな代物ではないのか。思考に必要なのは、イメージと概念、そしてその間を限りなく埋めていき説明するものとしての言葉である。必ずしもそこに小説が入らないでも、思考というのは出来てしまう。間に合ってしまう。潤ってしまう。それでも、脳と思考、そして身体にとって、小説という中途半端な言語の形式、活字の形式が必要であるというのは、どんな時なのだろうか。思考にとって、本当に小説形式、小説媒体としての書籍は必要なのだろうか。小説によって物を考える。しかし小説で眼を追うのが、大抵の場合面倒臭いというのなら、映画やビデオで同様の体験を済ませてしまうこともできるのではないか。本当は?それでも何故、小説という、あんなグニャグニャとした、イメージの常に間接的でハッキリとしない、曖昧な体験を、人は求めうるのだろうか。

小説によって、思考を纏め上げる、脳を鎮静化させうる、あるいは活性化させうるとは、ちょっと特殊な捻りが必要なのだ。そうでなければ、人は積極的に小説なんか欲望しない。哲学書と、批評と、後はイメージの流れ、映画、ビデオ、オーディオといったもので充足してしまう。・・・ミニマリズムは、思考の流れにとって、小説を必要最小限の内容量にまで切り詰めることによって、思考の冴え、思考の活性を、静かなボルトで、充電しようという形式にあたる。小説にしか出来ないこと、それを最も抽象化し、洗練化された形で、再現して、私的な空間に与えようとする。冗長な言葉、長ったらしい描写は、野暮である、時間を食い潰している、もっとシンプルに、小説にしか出来ないイメージの形式、把握の形式、情感の纏め方、思考の配分を、エッセンスとして、届けようとする。しかし、小説形式の宿命とは、それは決して物事について直接化できないという、言葉の形式に宿る限界にあるので、あくまでも迂回であっても、最も分かり易く説明可能な最低限の迂回を、まさにミニマムとして、結晶化させようとするのだ。しかし、イメージの結晶化とは、これがまた、小説にとっては、他の映画やイメージに比べて難しいものであり、結晶化を強めてしまえば、それは情景を固定化し、人物の動きも展開もフリーズしてしまうので、緩やかに、穴を適度に開けながら、適当に、いい加減に、曖昧にしながら、イメージのフリーズを避けながら、言葉の流れと情景の流れが、静かに流れていくようにさせなければならない。

ミニマリズムは、このような要求に、現代的に答えるものとして、形式として洗練化され、一般化してきた。ブコウスキーとはこの現代的な要求、ミニマリズムの形式を前提にして、頭角を表した小説家であった。ブコウスキーは、物事の流動性を重んじるあまり、最も分かりやすい言葉の形式を選んでいる。ブコウスキーの文章の分かりやすさとは、流動性愛好の故である。ブコウスキーの作品を全体的に眺め回した時、ひとつひとつの言葉の磨き方、イメージの組み方とは、絶妙で数学的に纏まりがあり、とても明快であるが故に痛快になっているのだが、作品の単位としては、出来損ないみたいに、中途半端に切れているものが多い。いわゆる短編が多く、短編としてもショートというか、唐突に終わってしまうような物が、乱雑に並べられ残っている。ブコウスキーの長編小説の場合も、長編を読んでいるのに、それは感覚としては短編を次々と眺めているに近く、平板で簡素な形式とその風景の上に、人々が淡々と行き交って交差して、そして別れていくものである。肩に力が入っていない、読むほうにしても、書くほうにしても、しかし、この脱力性と言うか、易しさの感覚が、実は脳にとっては心地よく、言葉の消化吸収を運び、言葉は食欲のように欲望され、思考は明瞭に事件の上で冴えていくものだ。

現代的生活サイクルにとっての小説の意味を考えた時、これだけ読みやすいということは、広く開かれていると云う事であり、実はブコウスキーの物の捉え方が完全に哲学的な抽象力に基づいていることが理解できるのだ。ブコウスキーの文体とは概念的である。登場する男と女も抽象的な働きを象徴的に示しうる。そしてブコウスキーの前提としているシチュエーションとは、常にパンクである。現代的であり身近な空間である。想像力が最もリアルに働く現実感がある。ブコウスキーの形式に哲学的要素を見出すこと、これが幅広く、ブコウスキーの小説が支持されている理由なのだろう。映画のイメージと哲学の情報力が氾濫した、現代的な生活習慣の中でも、小説の地位を独自に、特権的に浮かび上がらせることのできる力、抽象力と形式化の範例とは、ブコウスキーが自分のアナーキーな生活の中で、野生に培ってきた、この小説的思考の中にこそ、鍵を持つことは、間違いないのだ。それがブコウスキーの可能性である。