享楽のエコノミーと善の機能

享楽が、あらかじめ禁じられているとは、どういうことだろうか。宗教的には、割礼という儀式があるわけだが、それが特に女子に行われる場合、少女期に陰核を取り除いてしまう。イスラム圏では、女子に対するこの割礼が、今でも平然と行われている地域はある。別にイスラムだけでなく、キリスト教圏でもこの手の割礼は、近代化以前に、地域によっては行われていたはずである。宗教の原理主義的な強度の濃い地域ほど、こういう儀式に夢中になるものである。男子の割礼と女子の割礼が異なるのは、女子にとっての快楽を生むところの象徴的器官であるところの陰核について、少女期にそれを排除してしまうところにある。快楽はここで、宗教的な掟として、男にしか許されない権利であり、女は男根が快楽を享受するための、ただ一方通行的で受動的な器官を与えられるというに過ぎなくなる。女は、快楽をまず禁じられて、そして女の義務とは、第一義的には、貞操を守り、子供を育てる、母としての役割を限定として担わされる。これは人間の意識のシステム、共同体と宗教のシステムが、享楽を危険なもの、そして疚しいものとして排除する形態としては象徴的な段階にあたる。

精神分析の倫理』において、ラカンは、享楽をあらかじめ禁じてしまう傾向、<法>を内面化する共同体と人間的意識の構造に降りていこうとする。法−意識によって管轄される、共同体的で宗教的な主体の体制とは、自分の欲望に対して譲歩させる、諦めさせる意識を内面化させる掟を形成する。このとき、法とは、実定的な法というより、慣習的に内面化された主体の意識、そして無意識的な陶冶の傾向である。そこでは、ある種の享楽は危険視される。それは主に性的身体に関わる次元の快楽であるが、しかしそこでは享楽の性質とは、別の遣り方によって、宗教的で神学的な享楽とエロスの形式として、別方向から、エネルギーが昇華される通路が出来上がっている。性的身体として禁じられたリビドーは、別の宗教的な信仰形式、礼拝の形式によって、捌け口を与えられることができる。そのようにして、システム全体のエコノミーは賄われている。

この享楽に対する怖れの傾向とは、本当は、快感原則を超えると見なされている他のすべての昇華形式さえも、その実質が、やはり快感原則にあるのだという構造をこそ、見失わせるものである。享楽に対して距離を置き、主体に距離を置かせることによって、集団の秩序を維持しようとするのは、原始的な段階にある、社会の秩序の構造である。しかし、享楽を廃棄せよという掟の反復強迫は、表面的な原始段階、前近代性を通過した後でも、人間の意識にとっては、痕跡として残り続けるものである。どこに快感原則が機能しているのか、見失うことは多い。例えば、欲望と義務を対置することによって、欲望を抑制し、義務の意識を主調にし、それに従う意識があるとしよう。しかし、このとき、義務もまた、欲望の一部なのだ。義務とは、それもまた欲望されている。ここをメタ構造で見たとき、やはり根源的な機動力とは、欲望の次元にあり、欲望の審級から、そこの心理的な経済状態を透かして把握することはできる。快感原則と現実原則の対立についても同じことがあてはまる。現実原則も、やはり大きく見れば、それも快感原則の一部なのである。快感原則は単に排除できないというだけでなく、むしろすべては、意識しようとしまいと、既に快感原則の中に埋まっているのだ。そして善というものの社会的機能とは、この快感原則と現実原則の弁証法に関わっている。

ラカンは、善=財という見方をとっている。(善=財産=biens)ラカンは「善の機能」について説明している。まず法とは如何にして構成されるのか。人間の諸要求とは、まず有用(功利的)なものに宿る。そして最大多数のための最大功利性、これが法となり、法に従って、その水準における善の機能の問題とは組織される。この水準では、出来上がった正当性の論理体系(即ちテキスト=織物)では、可能な限り最大多数の主体が、そこに頭と手足を通すために作られる。しかし事態は、必ず次の段階で、別様に働き始めることになる。生産された財=善の機能とは、それが希少であるとか貧困に関わるとかいう以外に、出来上がった善=財として、初めから使用価値とは別の機能をもっている。それは生産物の享楽的使用である。善=財について、単純な使用価値と、享楽的価値の二つの側面に分離することを、ラカンは示しているのである。

これは享楽のエコノミーであり、何故、割礼のような遣り方で、社会の原始的段階では快楽の分配が偏った形で為されたのかという理由も示しうる。出来上がった富(あるいは快楽の体系)について、享楽のエコノミーからは、善はそれが単純使用であった段階から全く違った仕方で分節化される。善は、論理的テキスト(富=文脈=織物)の使用の水準ではなく、善の水準とは、主体がテキストを好き勝手に私有できるようになる水準となる。

これはどういうことかというと、善の領野とは、即ち権力の誕生に関わり、それは主体にとって、自分がその善において全面的に承認され自由を得ると想像することは、同時に、他者からは常に、その善を奪い続けるという構造が生まれる。善とは、それが享楽の観点から捉えられたとき、主体が他者から善を奪うという形式によって、機能する。(あいつは悪い、でも自分は善い、だから自分は正しい・・・といった自己意識のサイクルである。)善とは、必ずこの、他者からの剥奪という次元に関与する形で社会的に機能するものであることを、ラカンは示している。『重要なことは、剥奪者は想像的な機能であるということです。剥奪者は小文字の他者、似た者、鏡像段階という自然に半分根差した関係において与えられた人物であり、我々には象徴的な水準で事態が分節されるところで登場します。』(精神分析の倫理−下巻96p)

自分の善を守るとは、同時に他者に善を禁じることである。同様に、他者の善を守るとは、自分に善を禁じることである。この防衛と禁止の弁証法とは、善、あるいは対象的富が、主要な側面では、どうしても享楽の構造に関わることから必然的に出てくるものだ。(もちろんだからといって、善と享楽の関係を禁じてしまえば、それは元の構造=禁欲主義的社会の幻想体系に、引き戻されることになるだけだ。)善という次元は、我々の欲望の道に、絶えず壁を聳え立てることだろう。それは善と享楽の関係の必然性、宿命的な弁証法的構造から出てくる。これは段階として一次的に生じる壁であり、我々は常にこれに関わっている。それではどうやって、この壁を突破しうるのか。それが精神分析の倫理における課題として立てられることになる。