人は「対象a」の事について、どう説明すればよいのだろうか?

ここで忘れてはならないのは、対象aは欲望の原因であり、欲望の対象とは違うということである。欲望の対象は、たんに欲望される対象のことであるが、欲望の原因は、対象の中にあるなんらかの特徴であり、その特徴ゆえにわれわれはその対象を欲望する。それはわれわれがふつう気づかない細部とか癖で、われわれは時としてそれを障害として捉え、この障害があるにもかかわらずその対象を欲望しているのだと誤解することがある。

 ジジェク 『ラカンはこう読め!』

怪物の映画もそうなのだが、映画の構造において、そこで示すべき謎の対象が、あるいは凶暴さを発揮するべき荒ぶれた対象、不気味な対象というのが、一つの映画のテーマになっているような場合の話を考えてみよう。これはよくある映画の構造であり、作り方である。映画的時間の中で出遭われるべき対象について、それを如何に示すべきか、どういうプロセスを措いて示すのか、どのような時間、順序に従って、視る者は映画の中で当の対象としてのxについて出遭われるべきなのかというのが、映画のそれぞれにおいて知恵が絞られているものである。対象としてのxは、まず物語の中で、謎とか前兆として現れ、次第にそれが何なのか、対象の意味から具体的なイメージ、全体像を明らかにしていくとは、映画にとって特徴的な一つの方法である。ホラー映画から、スリラー、そして竜巻や地震津波といった自然災害を対象にした映画から、「ジョーズ」のように動物性の尋常ならざる凶暴さを対象=テーマに据えた映画まで、そのテーマ=対象との出遭われ方という意味では、構造が一貫していると考えることができるだろう。小説の場合は、映画ほど、この対象=謎の図式は明瞭ではないのだと思う。何故だろうか?小説の場合は、言葉によってイメージを説明しなければならないという迂回路的な手間がかかるから、単純にイメージの陰影から染みのような物を演出する手法は、成立しがたいのではなかろうか。メルヴィルの「モビーディック」という鯨を対象にした作品は、スピルバーグジョーズ的な対象性にとっては先駆け的なモデルではあるが、モビーディック的な構造とは、その後の小説の発展形というよりも、むしろ映画の進化形にとって大きな意味を持ち主役的な構造を担うことになったものだろうし。

ジョン・カーペンターが昔の恐怖映画のリメイクで作った『遊星からの物体X』のような映画ならば、まさにこの物体Xについて、南極の観測基地に送り込まれた調査隊が、前回に謎の遭難を遂げた前任者達の痕跡を頼りに遭遇していく過程を説明するものであり、物体Xの奇形的で不気味な全体像、そのおぞましきイメージとは、凍りつき孤絶した観測基地の中で、クライマックスに猛威を振るうことになる。意図的にモノクロームに近い明暗によって撮影された映像の中で、物体Xの絶望的な全体像が暴れる姿とは、効果的によく成功していた。

このように最初は謎として示されているある対象について、不気味な前兆を伴いつつ、次第に時間的にそれを明らかにしていく。映画はよくこのような構造をテーマにすることによって成立させられている一個のジャンルである。このとき、ヴェールに包まれた実質的な映画の中心としての対象については、何という呼び方で言ったらよいのだろうということだが、例えば対象aという、ラカンの説明に根拠を持った言い方があるが、しかしラカンのタームについては、余り気安く使うことが許されていない、ちょっとばかし気を使わざるえない環境というのがあるわけであって。例えば、2ちゃんねるの哲学系などを覗けば、やれお前はラカンの用語を誤解しているとか間違った使い方をしているとか、そんな非難の応酬ばかりが目に付くものである。やれお前は、象徴界とか想像界とか現実界とか、快楽とか享楽とか、言葉の使い方が間違っているとか、そんな非難の罵倒ばかりである。この奇妙な使いづらさは、ラカンの業というか、ラカン的な物の宿命なのだろうが。ラカンの用語というのは、そう安易に流通させることができない、使うに少々気を使わせるような、微妙なタメを孕んでいる物ではあるわけだ。こういった安易さを許せない微妙な近づき難さというのが、まさにラカン的な認識構造の性質ということでもある。

基本的な話なのだろうが、ここで改めて確認してみよう。そこで、映画において現れるべき対象性の一般についても、それをやたらに対象aとか言って説明できないような、気恥ずかしさというのもあるわけだが、「対象a」と普通に言う時、それはフランス語の(objet a)であり、aとはもちろん、autre=他、外、他者、other、という意味のaであり、それを大文字で書かないで小文字で表記すると云う事に特に意味がある。これが大文字のAとしての他者性ならば、また別の意味である。映画の構造的中心に置かれうる遭遇すべき対象とは、そう考えたとき、まず対象自体のこととして、xであるのだが、その対象が、前兆として、不気味さとして、或いはちょっとした染みのようなものとして、不在として示されているときは、それをa(autre)と呼ぶ。つまり、映画に出てくる対象自体のことと対象aと呼ぶべきものの間には、違いがある。

リドリー・スコット監督の「エイリアン」という映画ならば、宇宙船の隊員が到着した惑星にいた不気味な怪物のことが、映画のテーマとなっている出遭われるべき物体であったのだし、またスピルバーグ監督の「未知との遭遇」のような映画では、最後にアメリカの砂漠にあるNASAの秘密基地で現れる異星人の巨大な宇宙船と中から出てきた異星人のイメージが、それまで映画で引っ張ってきた出遭われるべきテーマとしての対象であり、物体Xであったわけだ。そしてこの焦点となるべき対象自体のことと、一般的に対象aといって示すべき物との間には、差異と開きがあり、この対象自体の前兆として現れた、様々な付随的な、小さな症候の事のほうが、具体的には、対象autreとして認識できるところのものである。対象aとは、むしろ対象の不在として現れるものであり、対象の全体を見せるものというより、むしろ部分対象として現象するもののことである。

こういった説明に陥ってしまうと、いかにもという感じのラカン現代思想マニアックな論議に陥りがちなのかもしれないが、ジジェクの示した啓蒙的な言い方で、わかりやすい説明があったので引用しておく。最近翻訳が出たジジェクの『ラカンはこう読め!』からである。

(4現実界を巡る厄介な問題−『エイリアン』を観るラカン−、より)

この欲望の対象=原因の状態は、歪像(アナモルフォーシス)と同じ状態である。絵のある部分が、正面から見ると意味のない染みにしか見えないのに、見る場所を変えて斜めから見ると、見覚えのある物の輪郭が見えてくる。それが歪像だ。だがラカンの言わんとしていることはもっと過激だ。すなわち、欲望の対象=原因は、正面から見るとまったく見えず、斜めから見たときにはじめて何かの形が見えてくる。・・・・

・・・・これが「対象a」だ。それは物質としてのまとまりをもたない実体であり、それ自身は「ただの混沌」であって、主体の欲望と恐怖によって斜めにされた視点から見たときにはじめて明確な形をとる。「実際には存在しない幻影」として。「対象a」は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によて歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。