ナルシズムとプライド、そして理想自我と自我理想の違い

ラカンの用語で、理想自我と自我理想の違い、という言い方が出てくる。ある意味有名な説ではあるのだが、どうもこれをどう理解すればよいのかという段になると、実は相当難しい話なのではないかと思う。それはラカンの説明の仕方自体が、まず難しいということでもあるのだが。

僕が考えていたのは、これは、ナルシズムとプライドの関係を橋渡しする概念と考えたときに、よく理解できるのではないかと思う。簡単に言おうとすれば、「理想自我」とは想像的同一化のことで、「自我理想」とは象徴的同一化という、自我の捉え方における段階の違いを示すといえる。ナルシズムは、個体的成長にとって、常に自然発生しているものと見なされうる。

原始的なレベルでは、個体の自己認識にとって、神経の統覚的安定がイメージの自己充足的な安定感をもたらすものとして、世界と自己の関係の把握、その鏡像的反映、快感原則を媒介にした統覚の自己安定するレベルとして、ナルシズム、あるいは自体愛というレベルが、発生しているはずである。これは生存を巡る自然発生的な恒常性の獲得に基づく。自己を認識できる生物は、器官的なレベルで、安定的な恒常性のレベルを、自体愛的なものとして抱く。この感覚は、全身的な自我を捉え直す感覚として、第一義的に想像的なものとして、個体に現れる。

しかし、人間的な社会生活において、原初的なナルシズムのレベルは社会化される運命にある。参加する社会の複雑な段階に応じて、環境としての社会と自己の意識を媒介するものとして、原初的なナルシズムは、即自的な段階から対自的なものへと、社会化=象徴化を蒙らなければならないという運命を辿る。つまり、人間的なナルシズムとは、そこでプライド的な意識となって、社会的に対自化される。プライド的な意識とは、本来ナルシズムに当たる自己統覚が、社会的に媒介され意識的な自己抑制とヴェールに包まれる過程であるが、根本的には、プライドという意識とは、ナルシズムが社会的に対自化されながら、自己の懐にもう一度戻ってきたものだと考えられる。

だから、厳密に言えば、人間のプライドとは、他ならぬ人間のナルシズムのことであるのだが、それがプライドという言葉で説明され、自他に把握されるときは、社会的な成長としての対自化を受けて自己に回帰してきたもののことをいうのだ。プライドというのも、だからナルシズムの機能の一部ではあるのだ。

これを先のラカンの用語で言えばどういうことになるのかというと、ナルシズムとは、自己と社会の関係意識にとっての想像的同一化の段階にあたるとすれば、自我理想とは、それが言語的な平面と媒介されることによって分離され相対化された、象徴的同一化のことを指すのだと思う。

そう考えると、想像的同一化としてのナルシズム=理想自我の段階に対して、象徴的同一化としてのプライド=自我理想の、二つの階梯の間を、自我の意識、あるいはナルシズムの意識とは、いつも揺れながら横断するものと考えられる。

漠然とした自我とナルシズムの関係の、即自的及び受動的な段階が理想自我と考えれば、これがヘーゲル的な意味でも対自的で能動的な意識となったとき、即ちある成長の過程を経たときが、自我理想になる、即ち、理想自我から自我理想に上向する階梯があるのであって、自我理想とは、自己のモデリングの意識にとって、最初のものより、よりピンポイントに焦点の定まってくる段階と考えられる。

実は僕はこのようにそこにある「違い」について考えていたのだが、しかし斎藤環の本『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』を読んでみたところ、斎藤環氏の考える理想自我と自我理想の差異というのは、僕の理解していたところとは違うみたいだということに気づいたのだ。理想自我と自我理想の違いについて、斎藤環は次のように考えているのだ。

自信とプライドの違い
 もったいぶらずに言い切ってしまいましょう。ひきこもっている人の心は、一言でいえば「プライドは高いが自信はない」という状態にあるのです。奇妙な表現と思われるでしょうか。自信とプライドは同じことではないのか?と疑問に感じられた方もいるでしょうか。しかし、例えば「むやみに威張っている人」の姿を想像してみてください。わかりやすく威張る人に限って、本当は自信がないので、バカにされることを恐れてびくびくしています。つまり虚勢は自信のなさの裏返しなのです。自信に裏打ちされたプライドは、人を倫理的に高めることもありますが、自身の裏づけを欠いたプライドは、単なる虚勢にしかなりません。

「自信」と「プライド」は、精神分析的にいえば、「理想自我」と「自我理想」という用語に置き換えることができます。前者はありのままの自分、鏡に映った自分のイメージなどに対する愛です。後者はあるべき自分、「あのようでありたい」と仰ぎみる理想に対する愛を指しています。

斎藤環 『ひきこもりはなぜ治るのか?』