動物にはナルシズムがあるのだろうか?

動物にはナルシズムがあるのだろうか?それらしきものはあるはずだ。まず動物は、イメージを認識するのか。やはりイメージ認識における原初的なメカニズムはあるはずだ。それは蝿にさえある。蝿の眼と脳の連関性にもある。何か原初的な把握のメカニズムであり、最もシンプルな世界像である。蝿の眼に映った世界は、単に白黒であるのだろう。物体の認識も、ちょっとそこでは明瞭な像を帯びてるとはまだ思えない。犬の眼に映った世界も、やはりまだ白黒である。ここでは蝿よりもまだ物体の像は明確に結ばれ、人間にも少し近いのだろうが。蝿の眼に映った世界のレベルだと、形象というレベルでも、人間の把握する空間像とは相当に異なっているはずだし、そもそも視覚的な把握よりも、臭覚的な認識や超音波や赤外線的な物体把握の方が、視覚そのものよりも遥かに発達しているし、蝿の認識系統にとっては本質的で重要度が高いはずだ。それは人間の眼と蝿の眼の中間に当たるのだろう、犬の世界把握にとっても同じである。

例えば、蛙が蝿を捕獲する。舌で瞬時に捕獲して食すわけだが、このとき蛙は蝿の何を認識しているのかというと、蝿自体の像は別に明瞭に、蛙にとって知る必要はないわけであって、蛙が舌を伸ばす時に必要としている情報とは、蝿が、その対象としての物体が、動いた、という認識なのだ。それが動かなければ、対象として蛙の脳にはそれが認識されないし、動いた瞬間には、人間の能力ではとても真似のできない瞬発能力によって、蛙の攻撃が繰り出されている。それは驚くべき正確な運動能力を持っている。これら、それぞれの生物体にとって原初的な運動能力によって、それぞれの生物体の快不快原理があるわけで、そのメカニズムの厳密さに従って、それぞれの生体には、ナルシズムに類似した、生態環境への安定した同一化の働き、即ち想像的同一化の働きと呼べるようなものが、大体備わっているのだろう。

しかしそれにしても、人間のナルシズムとは特殊なものである。というか、そこで動物と人間を隔てる絶対的なラインとして、むしろナルシズムという自己認識の有無を挙げることができるのだろう。ナルシズムの類似物は動物にも認められるにしても、やっぱりナルシズム自体とは、人間に特有の現象であるといった方が正しい。想像的な同一化のメカニズム、特にそこで、自己を類似物の他者と分かつものとしての、自己同一化のメカニズムとして、ナルシズムが考えられる。ナルシズムとは、本質的に鏡像的な個体認識から導かれるものであり、単なる欲動のアナーキーで非人間的な動きから、それが人間的で社会的な欲望としてフォルムを形成する特定の点において、現れるものである。

ラカンは、人間が幼児の段階で、最初に自己を身体として把握する時期を鏡像段階として捉えている。生まれてきた人間の子供にとって、欲望が純粋な状態であるとは、まだ自他未分化の混乱した欲望の状態を引き摺っているという段階にあたる。泣き喚く子供が、そういう自分の姿を見出し、発見し、認識する、あれは悪いとか恥ずかしいとか、分別を覚えるのは、同様の姿を、他者の中に発見するからである。しかし、悪いとか恥ずかしいとか、そういった判断のレベルは、単純な他者の鏡像的認識からは、もう一段切断が為された後の段階であり、価値的な判断、自意識的な判断とは、象徴的なものの導入移行のこと、即ち、言語を覚え始める以降の段階にあたっている。言語以前と言語以降とでは、鏡像的認識には、大きな切断が生じている。ランガージュ以前の段階とは、ただ欲望にとって子供は他者と自己を判断できているのみであり、そこに生じているのは、まだ純粋に想像的な判断の世界のみである。この想像的段階の、子供の判断力では、自己が自分の欲望に耐えられなくなったとき、その欲望からの出口とは、ただ破壊によってのみ、即ち欲望の対象の破壊、他者の破壊によって、欲望は出口を見出すものだ。子供が遊びながら、自分のオモチャを叩き壊してるような光景、あるいは隣の子供を殴ったりしながら、あいつが殴ったとか言っている光景とは、子供にとって欲望の出口が、まだ言語によってよく媒介されておらず未分化であり、欲望と身体と存在がまだストレートに、対象と鏡像的関係として一体化していることを示すものである。

ラカンは、この段階から、主体が環境世界と自己の関係を相対化する、他者と自己の合理的な切断を可能にする、理性的なやり方で世界を主体化するのは、言語の獲得によるものであることを示している。(『フロイトの技法論』−欲望のシーソー)世界との、最初に欲動と共に発達した、想像的世界性、一体性というのを、切断して合理化していく側面とは、言語による象徴的なものの認識の学習によるものである。想像的な未分化、一体化の欲動世界において、最初に欲望の姿を形態として認識させるものとは、自己の眼に映った他者の形態であり、他者と自己との鏡像的な同一性を認識する、引き受けることによるものであった。ここではまだ欲望とは想像的な快不快の原理によって、秩序を持っているだけで、そこから明晰な切断が訪れるのは、言語の学習による段階からである。言語の反照によって、ナルシズム的自我の把握は、単なる未分化な欲望状態だった段階から、もっと人間的で社会的な役割の配分として主体を捉えるものとなる。つまり言語の獲得の以前と以後とでは、同じ人間的なナルシズムであっても、格段の落差が生じている。そして、言語による認識の導入とは、即ち象徴的なものの次元の、世界への導入である。この象徴的なものの次元(象徴界の認識)というのが、要するに動物の世界では存在していないのだ。動物と人間を分かつ最大の要因とは、象徴的なものの認識の有無にあたる。*1

*1:しかし、もし動物の生態にとっても、象徴的なものの認識があるとしたら、それはどんな形態でありうるのだろうか。対象について、敵か味方か、性的対象か否か、それが強いか弱いか、程度の認識は動物にもあるのだろうが、それが象徴的な認識次元、ランキング的な認識、階梯的な認識、分類的な認識のレベルにまであるのか、あるいは単に想像的な強弱の明滅によって、対象を識別しているのか、という所にポイントがあるのだろうが。