想像界の機能

例えば、ジジェクは、自我理想と理想自我の違いについて、このように定義している。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる述語を用いている。理想自我(Ideal-Ich)、自我理想(Ich-Ideal)、超自我Uber-Ich)である。フロイトはこの三つを同一視しがちで、しばしば「自我理想あるいは理想自我(Ichideal oder Idealich)」といった表現を用いているし、薄い本である『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。「理想自我」は主体の理想化されたイメージを意味する。(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思う自分のイメージ)。「自我理想」は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。超自我はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの述語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、想像界象徴界現実界、というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう「小文字の他者」であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、「大文字の他者」の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判断する)。超自我現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無惨な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

ラカンはこう読め』 139P

斉藤環の定義をとって、理想自我と自我理想の違いを、自信とプライドの違いに置き換えるとするならば、こういうことである。プライドとは、象徴的同一化の点に位置すべし意識の自己把持のことだとすれば、この象徴的な同一性を具体的に保証できるものとは、同一性にまつわる想像的なイメージによる、感触的な把持の在り方である。ラカンの示しているように、認識とは、その認識の焦点において、象徴界想像界現実界の三つの輪がうまく重なるところに正確に生じる。つまり、この三つの輪がうまく噛み合い、焦点の合うところから外れると、認知と意識にとっては、病的な状態が症状として出現する理由となる。三つの輪とは、これがリングとしてうまく絡み合うときに、三つの円の焦点が出来るには、必ずこの三つ巴の結合が必要であり、いずれの輪を二つだけで組み合わせようとしても、それは不可能で外れてしまう。円の焦点とは、あくまでも三つの円が揃ったときでなければ、結合できることはない。この認識における三つの円の不可避的な絡み合いのことを、ラカンは「ボロメオの輪」のシェーマに準えて証明した。

自我を自己が把持する意識というのも、それが「健全」なものでありうるときに、全くこの定式が当てはまっている。自我が何であるかというのを意識が正確に把捉しうるとき、そこには、社会的で言語的な同一化のポイントとしての、象徴的同一化の点がまずあり、その同一化における正確さ、正当性を支えている、具体的な感覚的意識とは、自己に対するイメージの持ち方としての、想像的同一性というのが、象徴的ポイントの在り方を、直接的で感触的な正しさとして保証するものとなっている。象徴的と想像的の同一性が、うまく焦点を組み合わせるとき、そこにはうまく包含された自己にとっての現実の姿が、その下にはうまく収まっているはずである。この円環の構成する保証が壊れれば、自我の意識とは自らの捉え方において、病的なものとなる、それは文字通りの、認知の歪みの状態を示すものとなる。

象徴的同一化の点、即ち自我理想のポイントを、内在的に、情緒的に、感情的感覚的に保証するものとは、このように、想像的同一性の持つ意味合いであり、それは具体的で現実的な自我理想という在り方(自己のプライド的意識の持ち方)において、そこを取巻く前提としての理想自我の構成力、イメージの取り持ちようということになるのだろう。このように、プライドの意識を、具体的に内在的に、経験的な感触として保証するものの実在を、想像的なもの、イメージとしての内示的な感触のことだと考えれば、「理想自我」の実在とは、即ち「自信」の具体的で経験的な持ちようなのだということになるだろう。これが斉藤環の示した、自我理想と理想自我の構成の図式ということになるのだと思う。いずれにしろ、自我理想が、言語的で象徴的な社会的ポジションの保証ならば、理想自我とは、そこを媒介しているはずの想像的な自己の感触−だからそこにはもちろん、妄想的な自我の欲望の状態まで、含まれうる。

象徴的な意識(言語的な意識)とは、常に想像的な意識によって補完されている。そのようにして、意識と焦点の現実的なバランスとは保たれることになる。自我理想とは、理想自我を媒介することによって立脚しているということは、そのまま個体にとってのナルシズムが、言語的で意識的な媒介を経ることによって、いかにして社会的な正当性を勝ち得るのかという、プロセスのことを指すと考えられるだろう。つまり自我理想と理想自我の構成とは、そのままナルシズムの個体的フォーメーションのことであり、その社会的で意識的な定立のプロセスのことを指すと考えられる。斎藤環において、理想自我がそのまま自信の実在として置き換えられるとき、ナルシズムの形成プロセスにおいても、相当肯定的な意識作用を立ち上げるときの、意識の操作のこととして考えられているのだろうと思う。しかし、僕が考えるのは、ナルシズムは、本来無媒介的な状態において、もっとアナーキーで妄想的な自我想像の段階を含むものであり、理想自我のプロセスとは、その自然発生の原始的な想像性の段階をも、多く含んでいるのではないかと思うものなのだ。更に言えば、ジジェクによって示されたチャートでは、現実界としての自我と理想の構成が、超自我の次元に当たるものであることを示しており、自我にとって、純粋に現実的な自己と社会の接点とは、純粋に命令的、強迫的で、自己を惰性にある状態から追い立てるものとして捉えられているところが、なるほどと思った。

斉藤環の示している図式は、要するにこういうことだと思うのだ。「自信」の意識によって経験的=具体的によくイメージの把握されていない自我の意識とは、往々にして、無理に象徴化しながら把持している自分のプライドの象徴性にしがみ付くことにおいて、その裏づけの自信のなさというのが、粗暴でヒステリックな態度として表出しがちになるということである。つまり、プライドの持ちようにおいて、理想自我の経験的プロセスがうまく機能していない人というのは、ヒステリー化する運命にあるが、要するにそれは、現実界象徴界に、短絡して繋がってしまっていることにある、意識の状態である。つまりそれは、想像界の機能が退行した所で、象徴界現実界が、自我の意識において短絡化して通じてしまっている。二界の直結することとはそういう現象である。象徴と現実の関係を、正確に、調節しながら繋いでいるものとは、想像界の機能であり、そこではイメージの存在によって媒介の機能が果たされているものだ。