外国語と辞書と方法

語学の学習といったものに、どの程度の意味があるのかは、僕自身疑問に思っているが、しかし効果的な学習方法というのは、やっぱりあるということを、最近、切に感じた。

語学といっても、要するにそれは自分にとっての外国語を、自分がどのように吸収できるかということであって、例えば僕は高校が、帰国子女の多い学校だったので、英語をネイティブで平気で喋る連中とそこで暮らしたが、外国語能力といったとき、別にそういう人達、子供の時期に空気のように外国語を吸収して覚えている人達が、外在的な実在体系としての言語を、学習によって方法的に学ぶという方法を持っているわけでは、全くないということを、僕は知っている。かの土地に実際に足を運ばなくとも、有限な資料だけによって、外国語について方法的に学習しうることが、方法的な能力なのだ。普通に帰国子女とか呼ばれている連中には、まずこの方法的な能力や意識は全くないといってもよい。子供の時分に空気のようにして無意識的に摂取したなんていう外国語は、そもそも外国語ではないのだと言ってもよいのだ。

僕が懸念している外国語とは、仏語と独語であるが、そんなものに現を抜かしていると、そうでなくとも余裕がないのに、更に時間において自分の首を絞めることになってしまうので、あくまでも趣味として輪郭をなぞる程度で、深入りする積もりはないのだが、仏語や独語などは比較的、日本にいながらでも情報量の多い、学ぶに恵まれている言語なので、方法についても立て安い。

僕が観察してきた目で言えば、帰国子女にとって、外国語とは大抵の場合外国語ではないのだ。外国語とは、自分にとっての疎遠な対象、内的な繋がりの持てない体系の外在として主体に現われているもののことである。内的な自動増殖をさせるのが、そこでは難しいから、それは外国語なのだ。しかし、外国語の習得とは、やはり結果的な、内的な自動増殖性の獲得というところまで、何らかの形で到達しなければならない。かの土地にいかないで、それを実現するというのは、方法的な発見が、その都度の段階において必要なのだ。こういった方法を見出せる術こそが、本当の知恵である。

何故語学に現を抜かしている暇なんぞ到底ないはずの僕が、外国語学習の話なんて今しているかというと、ここ数週間ほどラカンセミナールにはまっていてずっと読んでいたということにある。ラカンが死んだのは81年で、もうそこから二十年以上の月日が流れているが、ラカンが一定の期間に毎年行っていたセミナールの資料というのは、まだ翻訳されていない、出版もされていないものが随分あるのだが、しかしそれはネットの中でかなり読めるようになっているのだ。もちろんフランス語で読まなければならないのだが。それじゃあ仏語を効果的に学習できる手段とは何よ、ということをこの一週間くらい考えていたわけである。

ラカンほど、それを読むときに翻訳の壁に悩まされる資料もないのだろう。既に70年代には、ラカンは日本語でエクリの翻訳が出ているものの、当時から、ラカンの言ってることが理解できている人というのは少なかった。ラカンの研究が進み、ラカンについての独特な翻訳の術が研究として進むにつれ、ラカンが実はこんなにも重要な思想であるということが、知らしめられてきた。日本でのラカンの翻訳というのも、2000年代に入って進歩したといったものだろう。00年に、ラカンセミナールの中核的な文献にあたる『精神分析の四基本概念』の翻訳が出版されている。それ以後の、ラカンの日本語訳と、それ以前の訳を比べてみると、もう読めたもんじゃないという感じである。翻訳の問題が多いと指摘されているのは、ラカンについて初期に翻訳されているエクリだが、これらを日本語で読もうとすると、まず翻訳書の値段さえもが異様に高いのだが、原書ならば、フランス版の文庫で安価に手に入るわけだし。しかし仏語でラカンを読めるようになるのは相当難しい。しかし、仏語ならば、ネットの中だけでも相当に豊かなラカンの資料が眠っている。そういう状況である。

主体が自らにとって、本来内的には疎遠であるものとしての外国語を、方法的に学習しうる、効果的に摂取しうるとは、それでどういうことになるのだろう。こういう時に正確に問題が立てられるようになれば、それもまたラカン的な境地なのだろうが。要するに、最も効果的な、外国語吸収の方法とは、ある言語の存在について、それをまたその言語によって分解する。それを表層的な作業として、限りなく、軽く流していくということにあるのではないだろうか。これが僕の結論である。それはどういうことかというと、英語については英英辞典を、仏語については仏仏辞典を、独語については独独辞典を使えと云う事である。使えというよりも、それらを一個の本として、単なる辞典というよりも百科事典的な読み物として、楽しめということにある。辞書とは一個のランダムな読み物である。それ自体で雑誌である。

本当に語学ができる人というのは、一々頭の中で翻訳をしない(=説明をしていない)という話を、きっと聞いたことがあるだろう。