ジャック・ラカンのセミナール一覧

ジャック・ラカンセミナールとは、この通り全部で本当は27巻ほどある模様である。

Les ecrits techniques de Freud (S I), ,1953-1954, Seuil 1975
Le Moi dans la theorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse (S II), 1954-1955, Seuil 1978
Les psychoses (S III), 1955-1956, Seuil 1981
La relation d'objet (S IV), 1956-1957, Seuil 1994
Les formations de l'inconscient (S V), 1957-1958, Seuil 1998
Le desir et son interpretation (S VI), 1958-1959
L'ethique de la psychanalyse (S VII), 1959-1960, Seuil 1986
Le transfert (S VIII), 1960-1961, Seuil 2001
L'identification (S IX), 1961-1962
L'angoisse (S X), 1962-1963, Seuil 2004
Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse (S XI), 1964, Seuil 1973
Problemes cruciaux pour la psychanalyse (S XII), 1964-1965
L'objet de la psychanalyse (S XIII), 1965-1966
La logique du fantasme (S XIV), 1966-1967
L'acte psychanalytique (S XV), 1967-1968
D'un Autre a l'autre (S XVI), 1968-1969
L'envers de la psychanalyse (S XVII), 1969-1970
D'un discours qui ne serait pas du semblant (S XVIII), 1970-1971
Ou pire… (S XIX), 1971-1972
Encore (S XX), 1972-1973
Les non dupes errent (S XXI), 1973-1974
RSI (S XXII), 1974-1975
Le sinthome (S XXIII), 1975-1976
L'insu que sait de l'une bevue s'aile a mourre (S XXIV), 1976-1977
Le moment de conclure (S XXV), 1977-1978
La topologie et le temps (S XXVI), 1978-1979
Dissolution (S XXVII), 1980

それで、このうち現在までに、日本語訳が出ているものは、ざっとこの通り。7巻ほどである。セミナールの翻訳というのは待望されている。日本の出版社にも頑張って欲しいものである。また古い翻訳物に成り果てた、最初のエクリについては、はやく新訳を出してほしいし、あるいは文庫化もとてもよいと思う。

1991(セミネール第1巻)『フロイトの技法論』(上・下),岩波書店
1998(セミネール第2巻)『フロイト理論と精神分析技法における自我』(上・下),岩波書店
1987(セミネール第3巻)『精神病』(上 ・下),岩波書店
2006(セミネール第4巻)『対象関係』(上・下),岩波書店
2005-6(セミネール第5巻)『無意識の形成物』(上・下),岩波書店
2002(セミネール第7巻)『精神分析の倫理』(上 ・下),岩波書店
2000(セミネール第11巻)『精神分析の四基本概念』,岩波書店

そして未訳のセミナールの中でも、フランスで出版が為されているものが、

Le Seminaire XVI : D'un autre a l'autre
Le seminaire de Jacques Lacan : Livre 23, Le sinthome
Le seminaire, livre 10 : L'angoisse
Le Seminaire. Livre XVIII D'un discours qui ne serait pas du semblant
L'envers de la psychanalyse, 1969-1970
Le Seminaire, livre VIII : le transfert
Encore : Le seminaire, livre XX


それで、このうち英訳の出ているものが、

On Feminine Sexuality, the Limits of Love and Knowledge: The Seminar of Jacques Lacan, Book XX, Encore
The Seminar of Jacques Lacan: Book XVII: The Other Side of Psychoanalysis (Seminar of Jacques Lacan)

ということである。

しかし、セミナールの情報というのは、フランスでは公式出版される前から、既に非公式で、いわば海賊版といった井出達で、常に出回っている、流通しているような状態にあるのだ。だからネットでも、未出版から出版済みのものまで含めて、多くの部分をフランス語で探すことはできる。大部分がラカンの講義をテープに記録しておいたものを、後から起こしてテキストにしているのだろうし、編集の権限を持ってるのは、あのアラン・ミレールであるわけだ。(ジジェクの師匠である。)その他にラカンの著作として残っているものは、彼の書いた文章であるわけで、文字通りそれらはエクリとしてまとめられた。エクリの出版が為されたのは1966年で、エクリの日本語訳は、1巻が72年に出ている。その他は、Autre Ecritsとして後から出ているものもある。ラカンが死んだのが、81年であるわけで、それから25年以上も経ってるのに、著作全体の編集作業がこれだけ遅々としている有様とは、何か風物的で面白い感もある。

エクリに収録されている各論文というのは、読み難いけれども、それでもラカンの生前に意識的な手を施して彼自身が出版しているわけで、自分の思考のエッセンスを、最も高密度な形で保存したといった意識だったのだろう。それに比べて、セミナールの記録で語られるラカンの思考とは、同じものを説明し直して分かりやすくしたものとはいえ、その明晰さは感動的なものとなっている。本来これだけ素晴らしく、凄まじい内容が、口から語れる人物が、本人の禁欲的なのか、あるいは不遇なのかはちょっと不明だが、敢えて、書くものとしてはこんなに少量しか残さなかったなんて、その生涯として見ても、凄すぎる。

ラカンの謎というのは興味深い。彼は、最も衒学的な哲学だと思われていながら、実際には最も衒学ではなかった人である。一つ、僕の知っている面白いエピソードを語れば、かのNAMの時の話だが、NAM前後の柄谷行人の発言録として、ある男性会員が−彼は鎌倉高校出身で予備校の英語教師をしていた男だったが、ラカンってどうですか?と氏に尋ねたところ、ラカン?あいつは詐欺師だ、と答えたという逸話がある。しかし、ラカンと柄谷氏を比べてみて、結果的にどちらが詐欺師だったのか?それは各人の判断にも委ねられるだろうが、今になってみて、改めてよく反省してみてよい事柄だと思う。思考のアイロニー、そして思考の現実性とは、本当には何処にあるのか、という話である。

ラカンについて文句があるとすれば、結果的なラカン読者として常に生産されてしまう、思想の読者、あるいは消費者の層が、どのような人々かという点を見るにつけて、ある種ニヒリズムの元凶と見なされてしまうことになるのだろう。結果的に、ラカン読者という部分に、思想の関係性として、ダメな人々は引き付けられてしまう。しかしもしそこでラカンが本当に理解されるのなら、見かけに関わらず、実質においてそれは全くダメではないということにもなる。ラカンに対するネガティブな意見が出て来ることにも、一定必然性があるのだが、それら受容の現実態を見据えた上で、それでもそれらを超えたところに存在している、ラカンの凄さ、ラカンのスタイルの微妙で静かなる凄まじさとは何なのかについて、我々は思考のパラドックスの中を掻き分けるようにして、近づいていくしかないのだろう。人間的思考の奇妙な宿命を自覚しながら。