情報と餃子

最近のテレビを見ていると妙に餃子が食いたくなる。こんな気持ちに襲われたのは何も一人だけではないはずだ。その証拠に今、スーパーでは、餃子の皮ばかりがよく売れているそうだ。そう生活ニュースでやっていた。報道の流れで触発された、日本人の餃子に対する妙な執着心は、自分で餃子を作って食べるという行為に駆り立てているのだ。この気持ちを、よく理解できるような気がする。ついちょっと前にも、報道で見たイメージと現実感の流れが、日本の人々の、生活観の中で、ある種執着的な欲望の形態を連鎖的に触発した事件があった。我々の記憶にも新しい。それは吉野家の牛丼を巡る、連鎖的な食欲である。アメリカ産牛肉の輸入停止を前提にして、吉野家の社長は、牛丼販売を休止するとの決意をし、そういう報道が流れた。吉野家の牛丼の味というのは、独特のものである。あの牛丼が食えなくなるとの噂が広まるとともに、販売休止のXデーを前にして、吉野家には牛丼を食おうとする人の大勢の行列が出来た。普段、日常的に食い慣れているものの、いざそれが中断されるとの情報が注ぎ込まれると、その前に食っておこうという欲望を、連鎖的に喚起したのだ。そのとき人々は思い出した。実は吉野家の牛丼とは、固有のもので、普段から意識せずとも、その恩恵に生活の中で浸っていたのだと。あらかじめ欠如にされる不分明な期間を宣告されると、逆にその対象に対して、過剰な欲望が触発された。これは情報の効果なのだろうか、無意識の構造だろうか。

農薬の混入した餃子の冷凍食品が日本に出回っていることが発覚し、それは中国製の製品だと、我々は知らされたわけである。漠然とした不安が、メディアを媒介にして、日本人の生活に共有された。今の時期、冬の寒い陽射の中を商店街を歩くと、店の前では、当店の餃子はすべて日本の手作りですとの声がテープで流れている。中華料理店の前には、当店の餃子は日本の工場で作ってるから問題ありませんとの張り紙が出ている。

この過剰な世の餃子意識に囲まれると、逆に餃子を食っておきたくなる。それで一回、中華料理屋に入って、改めて確かめるように餃子の味を過度に味わっていたら、それで何かが目覚めてしまい、連日のように、違う中華料理屋に通ってしまった。はじめは「日高屋」の餃子とチャーハンから始まった。次に「ぎょうざの満州」の餃子とチャーハン。そして「餃子の王将」の餃子とラーメン。近所の中華屋の餃子にラーメンと、それが何軒も。各店で餃子の味を食べ比べてみたり。改めてみると、餃子とラーメン、そして餃子とチャーハンというコンビネーションの絶妙さに、感銘を覚えた。このコンビネーションの発明とは、本家中国というよりも日本で発明されて一般化し定着したものだと思うが、本当に完成度が高い。これにビールか日本酒がつけばもう完全である。

池袋で友人と待ち合わせた折には、この話をして街を歩いてるうちに、こんどは池袋で中国系の経営してる本場中国東北料理の店の餃子という看板に行き当たり、入って中国餃子の味まで試してしまった。それは中々安くて良い店だったのだが(というのはお客も東京在住の中国人が多いようなので、どうしたって商品の単価が引き下げられるという感じの店だったのだ)、中国餃子のほうが日本のものより大味だと思う。そして中の肉の厚みも大きいが、ニラやニンニクの風味はその分日本のもののほうがよく出ているのではないかと思った。しかし中国でも場所によって餃子の味も異なるのかもしれないのだが。「王将」というのは、京都で発祥のチェーン店だ。「満州」というのは所沢で発祥のチェーンである。埼玉県に多い店のようだ。坂戸の工場ですべて作ってますとの張り紙が出ている。餃子の出来としては、満州の餃子が一番よいのではないかと思った。餃子の焼き方がうまいのだ。外が一様にパリッと焼けていて、中にも旨味がうまく収められている。王将の場合は量や作り方がダイナミックだが大味だ。ラーメンは王将のほうがよいと思ったが。