サドによって文学的表出とされたキリスト教的構造の限界点

昨夜は、ラカンセミナール『精神分析の倫理』の下巻にある15章の「侵犯の享楽」という、サドに関する論考を読んでいた。

まずラカンは「享楽のパラドックス」が存在することを示している。享楽は法の次元の周辺に呼び寄せられている。それが享楽として想像されているのは、そこに主体の侵入をはばむ法が実在しているからである。享楽の欲望は、ここにある暗黙の法を前にして喚起される。倫理的な格言としての掟−それは倫理的に主体をコントロールさせるための内的な法の次元であるが、そこには奇妙に、誘惑としては病的なパラドックスの構造を持つ、キリスト教的で原理的な法が、サドの環境には存在していた。それはまず第一に、「汝の隣人を、汝のごとく愛せ」という命令にある。

キリスト教的なこの命令は、そのヴァリエーションとしていろんな形で、我々にとって反復されうるものだ。近年の我々の耳にも新しいものとは、カントの命法に根拠をとったあの「汝の他人を手段としてだけでなく、目的にもせよ」とか、似たようなヴァリエーションはいろいろありうるものだ。しかしこの命法タイプ、原型としての「汝の隣人を汝自身の如く愛せよ」の中には、何か不気味な構造、即ち、パラドキシカルなからくりがあることを、ラカンは見抜いていて、それをサドの行動のパターンに即して説明しているのだ。

汝の隣人を汝自身の如く愛せ、の中に含まれる命令から、及びそこから愛の欲望として結果する欲望の形とは、他者への同一化である。他者への同一化(一体化)が、そこで欲望されていることの根拠とは、この宗教的な命令の中にまずある。ところが他者への同一化が目論まれ行動として移されるとき、その手前で、主体を引き下がらせる、ある気付きの瞬間が必ずありうる。それは、このまま主体が突き進んだら、他者のイマージュが侵害されてしまうだろうということに主体が気付くことである。他者のイマージュの侵害を前にして、主体は、他者のイマージュは尊重されなければならない、傷つけられてはならないという、別の命令の声を聴くことになる。これは内面と呼ばれるものの倫理的な構造になっている。一方で、汝の隣人を汝と同様に愛せという、他者への同一化の命令が起動していながら、同時に、他者のイマージュとは、神聖で不可侵であるという命令の前で、主体は最初の欲望にブレーキをかけ、諦めさせられることになっている。

この、他者のイマージュの尊重とは、神学的命令の一部でもある。そこで法的に自我と他者の平等が保障されうる根拠になっているし、そのような他者の権利の前提上に、自己の権利と自我の同等なイマージュというのを所有することも出来る。他者のイマージュの尊重の命令とは、全体の基礎付けと、利他主義のメカニズムの根拠となっている。他者のイマージュの尊重として定式化した方向で表現される理想化とは、社会を秩序付けている根拠として示されている。しかし欲望の構造とは、他者への同一化を暗黙に志向しがちであり、自分と同じように他人を愛したい、同一化したいという欲望が、イマージュの不可侵という法による禁止を前にして、常に生じているような構造が生まれる。これはサドの時代背景において社会的に見たとき、生物学的に欲望されているというよりも、明らかにキリスト教的命令の硬直した欲望として出てきている。

ここで他者への同一化を、愛情とエロスの極端な純粋化と抽象化の側面から実行してしまえば、主体は、他者のイマージュの損壊に着手しなければならなくなるのだけれども、この命令の体系における構造的な限界の地点に立ちながら、そのパラドックスを身を以って実行したのが、サドの行為であるということになるのだ。要するにサドは、あえて愛と快楽の実現をするために、他者への極端で高度なる同一化を果たすために、堂々と侵犯をし、他者のイマージュを損壊しに行くのである。だからサドにとって、掛け替えのないエロスの対象となる女性像とは、どんなに壊しても、不気味なほどに力強い、尋常ではないような生命力を携えた、ファンタズムを投影させた女性であるということに、物語の設定で常になっている。(それはどんなに壊しても損壊し切れない所に、エロスを絶え間なく永らえさせる対象的身体であり続ける構造がある。)

汝の隣人を汝自身のように愛せという命令には、不気味なパラドックスが内在されている。もし本当に私がそれをやれば、その先には何か耐えられない残酷なものが起きてしまう構造がある。愛を根拠に、愛の行動に身を捧げるとき、結果としてそこから出てくる他者への干渉とは、サドのような極端な例を取らなくとも、常に何か、不気味な結果、不気味な善意を孕んでいるものである。他者を同胞として想像することが欲望されているような環境的条件というのは、様々な場合でありうる。しかし、同胞という他者に対して我々はとかく自身の反映を見るので、我々自身の自我を特徴付けているのと同じ誤認のうちに、他者を必然的に巻き添えにしてしまうのだ。愛の共有とは、このとき常に、誤認の共有であり、大義名分のうちに他者を巻き添えにして、同様の犠牲者にしてしまう悲劇的な構造でもある。

一方、私の同胞としての他者の前で私を停止させる諸限界が超えられることとは、侵犯の享楽として、常にそれ自体が欲望されてしまう構造も、社会的に消去してしまうことはできない。結果として、愛という想像的な磁力の存在については、消極的なポジションから相対化しながら進めなければならない。ラカンは、精神分析の倫理とは、精神分析の牧歌とは、まず区別されなければならないことを示している。