ポケットの中の中上健次

日曜日の名古屋行きドライブだが、ジャンパーのポケットの中に一冊、僕は中上健次の短編小説集を文庫本で入れていった。ドライブの方はずっと忙しく暇になる時間がなかったので、旅の途中ではそれを読まなかったのだが、家に帰ってきてみて、その旅では読みそびれた本を、改めて久しぶりに中上健次の短編小説を読み返してみた。それは中上の初期短編集である。『蛇淫』という本で、僕の本棚には20年位前に百円位の古本で買ってきてずっと置いてあった本だった。殆ど読んでいなかった本である。

気が付くと、それが吃驚するくらい面白い本だったのに戸惑う。やっぱり中上健次は面白かったんだなと思った。というのは、中上健次については、素直に読んでいて喜べない抵抗感があった。これが本当に面白い小説なのかについては、長くずっと疑問を抱いていたからだ。中上作品として一般的に評価されている本とは、例えば「地の果て至上の時」とかだろうか。しかしあの文体は、本当によいのだろうか?正しいのだろうか?僕には疑問だった。中上の文体とは、途中から、擬古文を意識したような読み難いものになっていった。あれは文体のナルシズムでもある。あの奇妙な文体をいいという評論家は結構多かった。単に派閥的に中上の側にいるものだけでなく、吉本隆明なんかも、あれをいいと言っていた。あの文章が、美学的で芸術的な、日本語なのだろうか?僕は要するに、そこで抵抗を覚えていたんだな。それは小説形式のナルシズムとしてはある種の極に当たるのかもしれないが、単に面白くないのではないか、あるいは本当は中味がないのではないかと思っていたのだ。中上の小説として、批評家的な評価を与えられているものとは、後期の作品群、特に「千年の愉楽」や「地の果て」にかけたものがよいと言われている物が多いのかもしれないが、僕にはそれらは別に大した物には思えなかったわけだ。中上健次とは本当に重要な小説家なのだろうかと、その疑問はずっと抱き続けた。中上健次?それは本当に面白いのか?と。しかし中上健次の了解可能性を紐解く鍵とは、むしろ初期の小説の方にあるのではないかと考えるのだ。

初期の小説には未熟な物が明らかに多い。大江や三島のコピーをしようとして出来損ねたような小説が殆どである。しかし改めてこれを読んでみると、中上健次が小説についてどのようなヴィジョンを持っていて、小説で何をやろうとしていたのかが、その稚拙さ故によくわかるのだ。中上健次的なパターンというのは、初期の作品群で、既に大方方法が揃っている。小説についての彼の基本的なヴィジョンはその後も変わっていない。だから中上健次が、小説形式によって、日本文学で何をやった人なのかというのは、初期の基本的な文献から、充分にその基本構造を汲み取ることが可能なのだ。これが中上的形式のパターンであり、すべてだったのだろうと。中上の作品にとって、本当に面白いものとは、彼が三十前後の頃に書いていた作品群であり、彼は三十歳の時に芥川賞を取っているが、そして「枯木灘」もまさにその時期の作品に当たるのだが、その時期の強烈なるリズムに乗って書かれていた作品群であるのだろうという気がするのだ。この時期の中上の小説とは、まず読みやすいのだ。そして音楽的リズムに敏感であり、数学的な文体に切り取られた明晰さと気持ちよさがある。文体に込められた意思とは明晰さへの意志であり、そのくっきりとした描写の物質的感触はとてもよく成功している。そして広く読者に対して共有可能な体験を提示している。その明晰でリズミカルに巻き上げる文体の運動において。

「岬」という、芥川賞を取ることになった作品集も素晴らしいが、「蛇淫」はその前の段階に当たる短編集である。この時期において、中上の小説は驚くほど明晰でわかりやすいのだが、それとは裏腹に、この時期の中上は全くマイナーな作家であった。中上の小説が分かり難いものになるのは、彼が有名人となって後のことなのだが、本当に中上がよく分かるものを書いているのは、彼が有名になる前のもので、マイナー作家だった時代のものである。更にその以前の中上の作品はといえば、それが読まれうるか以前に稚拙なものであるのだが、しかしこの稚拙さの中に、中上が小説でやりたがっていたものの正体とは、赤裸な形で、最も分かりやすく、そこに転がっているものである。そして初期の小説群において、この人は潜在的に豊かな資質のある作家だと云う事は把握できるのである。しかし一般的な了解レベルにおいては、この作家は初期の状態では、まだ滅多に他人から気が付かれ得る小説家ではないことも、ハッキリとわかるのだ。

初期の地味な文章の中の、微妙なマイナー性において、既に最初の頃から完全性の高い小説家的資質を、この人物が担っていたことは、よく把握されうるのだ。つまり中上作品を解く鍵とは、本当は、この初期から中期にかけての、地味だが過剰にエネルギッシュな作品群にあるのだろうと思う。逆に言えば、ここから遡行されなかったら、彼が後期の分かり難い文体において−それは傑作扱いされているあの読み難い小説の「地の果て」も含むが、彼が実際に何をやりたがっていたのか、という次元も、全く理解できないのではないかと思うのだ。中上健次の本当の面白さを発見しうる鍵とは、初期の稚拙だが奇妙に完全性の高い、ゲームのような円環的世界像を有した小説群の構造の中に見出される、鍵があるのではないかと思うのだ。それは、中上健次を介して、小説とは何か、という、最も一般的で基礎的な問いを組み直せる重要な契機にもなるはずだ。そのときにこそ実は初めて、中上健次とは本当に重要な作家であったのだと、人は一個の初心者として気付けるはずである。小説における基礎的な自覚の発見に導くであろう。中上健次とは、本当はいまだに、殆ど読まれたことのない小説家なのだから。