イギー・ポップにはなれなかった草なぎ君に捧ぐ

草なぎ君が、深夜に公園で全裸でいるところを逮捕された。酔っ払っていた草なぎ君は、裸で何が悪い?と警官に噛み付いた模様である。なぜ突然、人は全裸になりたがるのだろうか。草なぎ君の性格は、テレビで見るだけだが、温和で理性的で、自己抑制的な性格に見えた。その彼でも、その彼であるからこそ、酒が入ると、人格が変わり、或いは人格のズレが表出して、被さっていた仮面を脱ぎ捨ててしまった。深夜の公園で、大都会の片隅で。それは、普段抑制している所の多い人であるほうが、ああいう意識の失い方をする人は多いという事実だろうか。何故だか、草なぎ君は、本当は全裸になることを欲望していたのだ。

しかし結局、からだに纏わる秘密の重さからは自由になれなかった姿がそこにはある。彼はもっと大きな重荷として引き受けさせられる、重力の世界に戻されてしまった。人が全裸になるということについて、日本人の抱いている観念というのは、どんなものだろうか。全裸になりたがった草なぎ君の気持ちを、理解できる素養というのが、日本人の文化的体質にはどの程度にあるのだろうかということが、ちょっと気になった。

日本の文化的体質とは、隠すことを前提に、美意識から政治手法、社交性まで、歴史的に作られてきている。それは15世紀にあらわされた世阿弥能楽理論から20世紀に谷崎潤一郎があらわした『陰翳礼賛』まで、理論的な認識としても日本人自身に把握されている。この性質に理論的前提を作ったものとは、平安時代に仏教思想として展開された密教の性質があった。日本的の性質の起源が、元は何処から来たものだったのか、何に由来したものだったのか、憶測は幾つかありうる。

島国としての、海洋的に孤立した土地を繋いだ国家の成り立ちにとって、横にある大陸としての中国の、敵わない巨大文明のイメージの存在感に脅かされ、意識し続けた結果、このような日本人的自己意識の形成がおきたのだとも考えられる。隠す文化、そして隠すことを美と思うような文化の性質、感性の体質が成立した。その陰翳的な物事の見方とは、美意識だけでなく、倫理的な意識、何を善と見なすかという判断力の次元でも、一貫して、連続して、機能している。果たして、隠す文化とは、日本に固有なものだろうか。どうやら西のイスラムのほうまでいくと、黒いスカーフに包まれた女性像に見られるように、「隠密」であることを美と倫理の条件にしているような文化というのは、他にもあることが窺い知れる。

しかし、イスラムのように、戒律の絶対的な社会に対して、日本の場合は、戒律が不在の世界である。明文化される掟が支配するのではなく、日本人の歴史にとって、掟の次元とは、むしろ共同体の空気の流れにあるものであり、それ自体は一貫していない。一貫しなくともいいものであるが、空気=集団から外れることというのが、そこでは人にとって致命的な事態であった。イスラム文化の中核にあると見なされる、掟とコーランの男性性に対して、日本的の意味を為してきたのは、女性的な流動力である。日本文化にとって、男性的に思考するということは、漢語に頼って思考するということであった。漢語の男性性に対して、仮名の女性性が相補うというのが、日本的思考の特徴である。

隠す文化、或いは付随することによって陰で主張を形成する文化の体質が、そこでは何かの理由で出来上がっていたのだ。これは、ヨーロッパのキリスト教文化の体質とは、反対のところに出来上がった文化だといえる。ヨーロッパのキリスト教圏においては、結局、美と善を根拠付けている在り方とは、正直であること、素直であること、嘘がないこと、純粋であること、そしてこの性質を極端にすれば「全裸であること」にまでいく。

ヨーロッパに、ヌーディストという文化が、20世紀後半に成立したことはキリスト教的な意思傾向の延長上に、そうあることが解放であるかのような思考の上に成り立っているのだろうとは、見ることができる。アメリカに発祥したヒッピーとは、やはり全裸になることが善であり美であるという、ある種信仰の体質から、彼らの文化とは成立している。脱ぎ捨てることが善なのだという考え方がどこかに伝統的に機能しているのだ。だからあのスタイルがある。

日本人が直にあのようなスタイルを真似するのは難しかった。無理と恥かしさがあった。日本人の文化的性質とは、あそこにあって通底するキリスト教文化の思考とは逆のものであったからだ。キリスト教文化にとっては、自分を裸にすること、さらけ出すこと、つまり告白するという行為が、善意識の根底には流れているのである。これは、どちらかといえば嘘の美徳、つまり能面的な仮面の原理が、理論的にも善の条件として構成されてきた日本人の歴史には、なかなか相容れないところがある。

歌っていても常に裸になりたがる人というのがいる。ロック史上の偉大な全裸系スターといえば、イギー・ポップの事である。パンクロックの形式が70年代に出来上がったとき、イギリスでもアメリカでも、パンクの人達が基準にした音のスタイルとは、イギーポップのスタイルであった。パンクのゴッドファーザーとして君臨するイギーポップだが、もうその彼も60歳を超えた。しかし彼がステージに立つときは今でも基本裸である。さすがにここ数年のイギーの姿を見たとき、老いは隠せないし体型も崩れてきているのがわかる。齢六十になってもずっと裸でスタイルを維持してきたイギーでも、ここ数年でさすがに限界が来たか。超人のイメージでずっと売ってきたパンクファーザーのイギーであってもここに来てさすがに体型の崩れが明らかになった。しかしどうしようもなく腹が出ていてもまだ裸でステージに出ているところがイギーのイギーたる所以でもあるような気もするが。この稀であった超人主義にもいつかは終りが来る。

イギー・ポップとは、基本形がいつも裸の人物であった。我々は、裸ではないイギーのイメージというのをまだとても想像できないだろう。偉大なパンクのゴッドファーザーも、さすがに後数年で年貢の納め時になるのかもしれない。裸であるということも、結局ある種の虚構であるには違いないのだから。その辺が西洋キリスト教社会の矛盾を突ける点なのだ。(ドゥルーズの『差異と反復』では、この辺についての突っ込んだ論考が為されている。)裸であることもまた、着衣にとっての一つの形態である。

西洋全裸信仰の代表格であったようなイギーポップ。彼の音楽と彼の哲学でさえも、そろそろ終焉の落日を迎えるのかと考えると、いささか淋しくならないでもないが、彼の表現してきた偉大なイメージの数々とは、ずっと我々の脳裏に焼き付いている。

90年代の初めに、NYのニューウェイブバンド、B-52'sの女性ボーカルであるケイト・ピアソンと一緒にデュエットした曲があった。この曲の中で二人は、「人生は狂っている」と呟き続ける。なぜ人生は狂っているのかというと、どうしようもなく欲望がゲームに取り付かれているのに、しかしゲームが終りになることを、愛の力とはどこかで信じてしまうからだ。「無償の愛」と「ゲームではない愛」のまぼろし。それは西洋キリスト教社会の根底にずっと脈流として流れ続けている幻の存在である。