相撲と美学とシンボリズム

日本の相撲界の展開が最近慌しい。八百長がどうしたの外国人力士が大麻を吸ってどうしたの、かわいがりという名のリンチが監視対象になっただの、ロックミュージシャンに高飛車な態度を取ったのを怒られただの、ニュースをつけると相撲の話題に事欠かないような状態だ。しかも本業の取組みで話題が出るのではなく、ずっしりと座った重みのある尻に座布団の何処からか火が移ってきそうな勢いで、相撲界を支える根幹的なものが今、再検討に附されている。しかし考え方を変えれば、よくこれだけ反近代的というか不条理な掟の要素を旨とする相撲界の体制が21世紀のここまで保たれてきたということのほうが驚きに値するかもしれない。日本の社会は発展として合理化を徹底化してきたのに対して相撲界は合理化に反対するような暗黙の掟の絶対性から不条理性をシンボリックに維持してきたのだ。ついにその矛盾が限界に来たということか。

何か集団の秩序を維持するためには、絶対的だが不条理な掟への忠誠を維持させるようなシンボル操作が必要であるような社会の状態とは、歴史において必然的であり、世界史を見てもどこの国でも長くに渡って続いてきたシステムの自己維持する体制の問題である。西洋からアメリカなら全く合理的な社会体制に開かれているかといえば、やはりそんなこともなく、システムの統合を秩序付けるためにはキリスト教のような宗教シンボルを必要としている。何故その掟が共同体の中で守られなければならないのかという問いに対して、不合理に答える、不合理に開き直ることのできるシンボル操作が、各国の歴史の中で、常に必要であり機能しているのだ。日本では天皇制という制度と相撲界のシンボリズムはまさにそれにあたっている。

システムに人を従わせるには、何処かで反論をもう受け付けさせないような有無を言わせぬ絶対的な掟性、不条理への忠誠をシンボリズムとして必要とする。共同体における掟の暗黙性というのを機能させる、相撲という国技の体制とは、日本人にとって単なるスポーツではなく、精神的なシンボルとして機能していたのだ。

嘘を平然とつけること。これは相撲界の仕来りとして重要で根幹的なものなのだろう。しかしそういうときの嘘には嘘の倫理があって、嘘が報われる条件とは、それによって組織への裏切りを阻止すること、組織の一体性を守る立場においてである。相撲界において、物事には裏がある、金の流入にも裏があり、本当の収入が幾らなのかとかは常によくわからない、曖昧なヴェールで包めるようになっている。力関係の体制においてその裏は問わない、暗黙の了解で目配せしながら、物事をスムーズに決めていくという礼儀が相撲界の最大の精神性である。だからそれは最初から単なるスポーツではない。技による粋の世界なのだ。だから相撲とは国技である。

ロシア人の外国人力士が大麻で解雇された。解雇されたロシア人は三名に及ぶ。しかし彼らは何か、恨めし気な言い分が相撲界に対して残っているようだ。どういうことだろうか。裏と表の分離を当然の旨とする相撲界の仕来り、裏の慣習において、大麻は昔から一部吸われているような慣習は残っていたのかもしれない。そもそも日本にとって大麻の禁止は戦後GHQ以降の禁止条例であり、日本人にとって大麻は神聖さも伴う慣習であったので、アメリカの言いなりには決してならないという意味での突っ張りなら、日本の力士の中に、そのようなアメリカ統治に起源のある命令に従わなかった層がいたとしても特に不思議ないのではなかろうか。ただ解雇されたロシア人力士が怒っているのだとしたら、本当は日本人も吸っていたはずなのに我々外人だけ裁かれているのはおかしいということではないのか?・・・まあ、事実はよく分からない。これは一つの仮定である。暗黙の了解で物事を揉み消していく美学として、その技能団体の慣習は機能もしていたのだから、その不透明性に対して、たとえ不透明であること自体が一種の美学として機能しているのだとしても、外部からのフェアネスとして開かれていかなければならない必然性、矛盾というのはもう明らかなレベルに達しているのだし。

横綱が裁判所に呼ばれて週刊誌と争っている。モンゴル人の横綱である。相撲を興行として維持するためにはもはや外国人を多く雇いいれなければ相撲界自体が成り立たない。しかし外国人とともに暗黙の流儀としての相撲界の美学は、その条件を疑われることになった。外人には理解できない暗黙性がついに批判に晒されるようになったのだ。社会の一般状態に対応してその文化的なシンボリズムも異なる。変動している。相撲の興行体制が、この状態からどう先に生き延びれるかというのは、興味深い展開でもある。今までは有り得なかった、何かの新しいシンボリズムを、日本の社会が模索しているからだ。