渋谷とBYGと僕らの歴史

そういえば九月最後の日曜日の夜にノザキが再婚したというのでパーティに行ってきた。

渋谷の駅からマツバラ君と二人で六本木通りの大きな坂を夕刻の曇空を見やりながら上っていった。都内の動脈にあたる幹線道路で巨大なパイプラインだと歩きながら改めて感じていた。雨は降るのか降らないのか分からないような曖昧な空が街を覆っていた。ときおり細かい水滴のようなものが空から落ちてくるような気がする。しかしこれがはっきりした雨になるのかは予感できない。歩道の横には車が無数に流れていて巨大なトンネルの中に吸い込まれていく音だけが聞こえていた。

大都市の街のざわめきは空に吸い込まれていくようで我々の通る歩道に人影は少なかった。日曜の夕刻に大都会の喧騒の傍らでエアポケットのような人気のない寂しさの中で坂道を上がっていった。

この巨大な幹線道路は一つの山を丸ごとぶち抜いて作られているのが分かる。背後には下に渋谷の町が広がっている。渋谷というからにはかつてあそこは谷の窪地だったのだ。そして昔この一帯はなだらかな山だった。人口の異様な増大と都市の強情な繁殖は自然の地形を完全に変更して巨大パイプラインを貫通させた。そういった渋谷界隈における過去の自然地形の歴史を髣髴とさせながらそこにかつてあったはずの土地の記憶を静かに、目を瞑ると想像で再現しうる、そんな瞑想的な気分にさせる坂道だった。

坂を上りきったところ、昔はきっとここが低い山の峠のような所で、横から青山方面から通ずる通りと交差している。幹線道路のパイプラインはそのなだらかな頂上のような場所から地下のトンネルへと潜っていく。

歩道の横断歩道の信号が変わるのを僕らは待った。しかしそれにしてもその時間にその場所は人気の少ない、車の騒音だけは限りなく曇り空へと吸い込まれていきながらも気持ちの上ではとてもロウアーな静寂に包まれている空間だったのだ。

人も車も通らない交差点を右に縒れてすぐ路地に入るとパーティの会場であるレストランが開いていた。店の中からは人々の混雑した吐息が聞こえている。ドアが開け放れていてオレンジ色の光が漏れて奥では忙しなく人々が動いている気配。男女の声が入り混じっている。二人で店に入って狭い通路を抜けるとき最初に出くわした知り合いは武くんだった。

ダンボールハウスに描いた絵で有名になった画家の武くんである。新宿や渋谷の活動でお馴染みだったが最近たしか武くんの活動をテーマにした演劇がかけられたりしていたのをラジオのCMで聞いたことがあった。

武くんがポラロイドで写真を撮ってくれた。写真にメッセを書いて壁に貼ってくれというのだ。カウンターで飲み物を頼んだ。ビールを頼んでいたら高校の同級生の女の子が僕を見つけてくれた。A子ちゃんだ。そしてカタオカがいた。カタオカの奥からはカズヒロが出てきた。カズヒロは卒業以来会ってなかったがやけに日に焼けていてさっぱりしていた。

高校の同級生は4人しかいなかった。再婚パーティだ。ひとは人生できっとそんなに何度も結婚してもしょうもないのだろうからこんなので宜しいのだろう。A子はスッチーだった。もうベテラン乗務員の域に入るのかもしれない、話には聞いていたがそれらしい感じになっていた。彼女とももう二十年来の再会だ。カタオカは大学にはいかなかったが一人で事業をやっていた。

帰国子女だったので英語を使ってアメリカ企業の代理店をやっていたのだが十年ぶりに会ったらボストンに家を建てたということだった。とかいうとなんか凄そうだがしかしよく考えてみると今話題に上がってるサブプライムローンで少し前に強引に建てたのかもしれないなと思った。まぁ詳しいことは聞かなかったが。高校時代の友人で別に大学にもいかなかったが結構バブリーな事業にチャレンジした者は何人かいたのだ。

A子とカタオカは私達結婚するのという。どっちも再婚だ。カタオカはもう離婚してるが前の奥さんとの間に三人子供がいる。19歳の時に最初の子供が出来たので皆で彼の家まで会いにいったことがあった。あのときの長男はどうしたのかというと、なんと米軍に入れたという。その話は面白すぎて吹いた。ボストンに家を建てて月に一度程度仕事で日本に戻ってくるという。アメリカの湖でA子と二人がモーターボートに乗って運転してる写真を見せてもらった。カナダまでドライブで4時間だという。

A子は日航のスッチーだが大阪に赴任しているという。関空と北京の往復便で仕事してるという。カタオカの名前をときどきネットで検索して確認してるという。一緒にいても放っとくと二人はベタベタはじめる。

二時間ほどレストランの会場でその後は二次会だという。会場は渋谷駅の向こう側の坂の上にあるBYGだという。レストランの会場では松陰さんがギターもって何人も従えてコントをやっていた。八月にゴールデン街をノザキと訪れたときにママさんをやっていたトーストガールも歌と踊りに混じっていた。なんだか後ろのほうでざわざわコントの出し物を演じていたが、高校同級生は物陰で話に花を咲かせていた。しかし途切れると二人がいちゃつきはじめた。他者というのはあってもなくても完結してるものなのだ。充実した二人濃密な人間同士の世界では。

Aに前の旦那はどんな人だったの?ときいたらそれも高校の男だった。ちょっと驚く。へーそうなんだ。ラグビー部でカズヒロと僕と一緒にやってた男だった。スクラムハーフだった男だ。理系の私大に進学したはずだが後にロスに渡った。なんかロック関係の仕事でもやったのだろうかよく知らないが。プロモーティングとか。彼とは三年で終わったらしい。Aは上智に進んだ。けっこうバブルな時代でディスコとかジュリアナとか全盛の時代に青春が重なるのでそういう方面に詳しかった。人脈では同世代の桐島なんとかという女優とか小牧なんとかというよく深夜ロック番組のVJで出ていて外タレにナンパされてたキャスターとか、おもいっきり80年代のバブルで華やかな青春のイメージが詰まっていた。彼女は高校より大学のほうが面白かったのと言っていたがそりゃそうだろうと思った。あの高校はやっぱり何かおかしい外れていたのだ。

レストランを出てBYGにいくため通りに出てタクシーを拾った。高校同級生の4人である。僕以外の3人はみな帰国子女なので酒が入ると英語で会話をはじめてうるさいのだ。BYGは渋谷の道玄坂裏でストリップ劇場の上にある昔から有名なロックバーだが、昔の僕らにとって馴染で思い出の詰まった店だった。

4人で道玄坂を上りカズヒロと僕でBYGの二階に上がった。カズヒロは日に焼けていて黒くさっぱりしていたので、何かスポーツやってるのかと聞いたら、サーフィンと答えた。へらへらと人のよい笑いをしながら、相変わらずどこかコミュニケーション障害っぽい感もする帰国子女特有の楽天性を発揮していた。楽天主義のオーラがカズヒロの背後に出ていた。酒で顔を赤くしながら。酔っ払って気持ちよくなるとナンパを開始して止まらなくなる。誰にも止められなくなる。それでレストランの会場でも到るテーブルで顰蹙をかって嫌われまくっていた。でもやめない。BYGでも同じことはじめる。周りは嫌いまくっている。でも止まらない。さすがだ。最高だと僕は思った。カズヒロと二人でテーブルに腰かけBGMではジミヘンが流れていた。Aとカタオカの二人が来ないのでカズヒロが携帯電話を入れる。僕も代わる。どこいるんだよ?今ホテルに入ったという。なに?いくらのとこ?3500円。いいから早くこいって。三分で終わらせて来い!

渋谷のBYG。そこは萎びて古びたロックバーだ。BYGで二次会とはいっても各テーブルでそれぞれ酒飲んでるだけだ。しかしカズヒロのナンパが止まらない。誰にも止められない。すべてのテーブルで嫌われまくっている。その光景を見ながら僕は嬉しくてたまらなくなった。

カズヒロは二年くらい浪人して理系の私大にいった。昔は一緒にラグビー部をやっていた。彼はメーカーに入り技術者になった。浪人中はスペインとか放浪してた時もあるという話も聞いていた。彼の親がヨーロッパの赴任で仕事していたのだ。スペインはワインがうまい。ワインで酔っている。水よりワインのほうが安いとか。今は子供もいて町田に家を建てたそうだ。それで休日にはサーフィンやっている。いい人生かもしれない。僕は十年前にタクシーとかやったこともあったが、皆はそれなりに人生をいきてる。いい人生を送っている。ナンパしにいくたびにテーブルで嫌われてるカズヒロは最高だった。各テーブルの人達が女も男も含めて本気で怒っている。その姿その光景が。僕もサーフィンでも学ぶべきかもしれない。いいよなあ。サーフィン。板に乗って海に出て水の上にただ浮かんでいればよいのだ。それだけのことだ。それだけで人の健康とはばっちし保障されうるのだ。

ラブホに瞬間足を踏み入れ何もやらないで出てきたカタオカとAとしばし飲み交わし歓談していた。ノザキの店で関係しているアーティストの人達とも交流した。アホアホな脱力した歓談だが、結婚パーティなんてこれでよいのだと思った。みなが徹底的に脱力してよい。結婚なんて気張ってやってもしょうがない。BYGの安っぽさがとっても相応しかった。店を出るとき黒い壁の暗くて根暗なカフェの店内は脳天気な楽天性で漲っていた。カタオカの二人組は店を出ると、こちらが話している会話の途中に突然ジャーネーといってふらふら二人で離れて町の流れに沿って消えていった。だから僕は一人で地下鉄へと向かった。新しく出来立てでピカピカの副都心線である。これ一本で埼玉の家まで直通してくれる。乗り換えはなしだ。