そしてゲームだけが残った
カントは、ユダヤ教の秘儀的教典であるカバラを否定している。カバラは、ユダヤ教における秘教的な伝授の体系であるが、カントは、彼の時代の霊能力者と云われたスェーデンボルグの批評として『視霊者の夢』を書きつつ、霊の存在については必ずしも否定しないとしつつも、ユダヤの持つカバラのような認識構造については否定的だったのだ。カントという人が、カバラ的な秘密の持ち方にあるような密教的体制、否定神学的体質について、拒否感を持っていたことを示すものである。
しかしそれに対して、カフカのような人は、カバラについて並々ならぬ関心を寄せていたという。カフカ自身の生い立ちがユダヤであって、カフカはシオニズムについても調べていたようだが、しかしカフカにおいてカバラの興味とは、カバラの性質を肯定するために没頭したというのでは決してないのだ。それはカフカによって書かれた傑作短編の『掟の門前』のような作品を見れば了解できる。
カフカは決して、カバラを信じるためにカバラを研究したのではない。掟の門前において、ただ私の前には、掟の門だけがそこに厳然たる形でいつまでも立ち塞がっているだけであって、主体にとっては、その門からいつまで経っても拒絶されているという体験だけがすべてなのだ。門の中には何かあるというわけではない。ただそこには門とそこに入る条件をクリアする、意味の分からない奇妙な掟だけがあるのであって、いつまでたっても主体は、入口であるその地点にだけ立たされて戻ってくるだけである。中に何かがあるわけではないということは、どうやら主体も薄々勘付いてはいる。しかしそこをクリアするための、いつまでたってもクリアが出来ない条件だけが、ずっと前に立ち塞がっているのである。
いつまでたっても内部には入れて貰えないが、しかし主体は、門前で厳しい条件だけが突きつけられたままであるような状態。これは、否定神学的な入口の体裁の無意味さと、見せ掛けについて、そして別に宗教的条件だけでなく、社会の構造というものがむしろ凡てにおいてそうなっているのだという事を示そうとするものである。ただ主体の前には、無意味な形式的条件の試練だけが、無限に、機械のように続いている。
カフカにとって、カバラにある秘密の構造を紐解き、分析することとは、要するに、カバラのような体系性、秘密の無意味な体系が、そのまま小説というジャンルの構造そのものに似ているということに気づいてのことである。言葉と物語にとって秘密の内包される構造とは、即ち小説という存在についての謎解きそのものである。
小説とは、ただそれ自体で、言葉の無意味な秘密の構造であり、広げられた曼荼羅のような構造を読み解く行為である。小説の構造が言葉にとって、無意味な秘密の構造そのものであるという思考とは、カフカの書いた『城』において、見事に表現されている。『城』に描かれた構造そのものが、そのまま無意味と徒労としての秘密の構造であり、しかし意味不明に、主体にとって秘密の在り処には引き付けられずにはいられない、欲望の奇妙な反転がそこにはあるのが不思議なのだ。小説を進行させる面白さとは、この秘密の構造の連鎖によって触発されるものである。小説が面白くあるためには、別にその仕掛けとしての秘密には特に意味がある必要はない。ただうまく秘密に包まりながら仄めかす、言葉のエロスの構造がそこにあれば、性的な意味でもそれ以外でも、小説とは成立するのだ。秘密の本質とは、どこまでも無意味であってもよい。特に小説のような言葉のジャンルにおいて、その構造的空虚さはリアルである。カバラの徹底的に無意味な内包構造とは、カフカにとってそれが、言葉の組み合わせにおける小説というジャンルの構造そのものに思えたのだ。
「ゲーム的リアリズム」という認識の構造を見るとき、歴史的に言って、これらカバラや密教にまつわる、秘密の無条件で無根拠な構造を巡る、認識の歴史というのが紐解いて出てくるものだ。それは言葉の無意味なシステムであることは明らかであっても、人間にとってある種の認識の構造とは、必ずそういう形を取らざる得ない。カフカの気づいていたものとはそういう事情である。
これを日本の脈絡で云えば、密教に起源を持つ長い伝統的体質というのがある。密教の伝統とは、日本史においてそう簡単に廃れるものではなかった。そこには密教あるいは否定神学的な形象に人間がどうしてもひき付けられる構造がある。
最澄の天台宗によって導入された仏教思想は本覚思想という。人間に本来備わっている仏性を覚醒させようというものであるが、密教の手法にとって、そういった覚醒とは大抵秘密裏の経験の神秘的なプロセスを持つものとなる。こういった宗教的な秘密の持ち方において、仏教と宗派はある堕落の構造、権力の構造も内包するようになる傾向も見られた。
例えば、現代版の仏教として、密教を自称して登場してきたのが、あのオウム真理教であったことは、我々の記憶にも新しいところである。密教の特徴には、仏教では多くは誡められているところの性交についても、それを秘儀的な伝授の方法として取り入れてることが多いということもある。平安時代に、密教は貴族仏教として広まった。僧侶は貴族を相手に加持祈祷をすることを仕事とした。現世利益を実現するためのまじないや伺いをすることがそこで僧侶の任務とされた。密教的な世界像を図像化したものが曼荼羅である。曼荼羅は空海によって日本に紹介された。
日本で密教の在り方はやがて批判されるようになる。鎌倉仏教として現れた新仏教は、密教の権力的な在り方を否定し、民衆の中の実践的な信仰や社会事業の建設へと向かった。日本仏教の在り方はここで大幅な変化が現れた。しかしそれでも、密教でなければ語れないこと、密教でなければ体験しえないと信じられた、文化的なものの領域というのが、社会の中には残っていた。それは日本の貴族文化の伝統の中に残ったのだ。
ここには貴族文化と庶民の対立意識があった。仏教が民衆化されながらも、大衆的な迎合性や凡庸さを嫌う、貴族が貴族にしかできないと思っている高貴な文化を維持しようという傾向も、京都を中心にして残ったのだ。顕教の大衆的な進行によって、仏教思想が逆に詰まらなくなる不安に脅かされながらも、芸術的意識について質の拘りを強固に保ち続けた日本文化の流れは、やがて室町時代において、質の高い貴族文化として大成されるようになる。この密教的な流れを汲む貴族的文化の結晶を表すのが、世阿弥の能楽理論である。
世阿弥のあらわした能楽理論とは、世界史的に見ても驚くべきレベルの高いものである。そこでは芸術的な体験の本性というのが、論理的に明確に示されている。室町時代に起きた展開とは、芸術の形についての理論的認識の展開である。既に無自覚にそれまで養ってきた、歌謡から物語論、演劇まで芸術の形式について、理論的な反省と確立が、室町時代に、足利家のパトロネージの下に、貴族的な文化のコミュニティを中心に為されるようになる。
世阿弥は、『風姿花伝』で、芸術的体験の核になる質について、それを「花」という概念によって言い表している。
秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分けめを知ること、肝要の花なり。
風姿花伝において、秘密とは花である。つまり、秘密であることが、美の条件なのである。花の構成、花の創作とは、最初から人工的に、秘密を作ることにある。これが能楽において、あるいはそこから芸術一般の形式において、芸術を芸術たらしめてる所以であり構造である。そういう認識が、既に日本では世阿弥の段階で確立していたのだ。
世阿弥はこういった秘密の在り方にまつわる、誘惑論的な認識の構造を、最澄の密教から引き継いでいる。秘密の構造が、能であり、劇を面白くさせている所以であり、芸術の要素であると、はっきり表明することとは、ある意味開き直った創作理論の開示である。秘密の所持について、そこに奥行きや趣を孕ませる伝統というのは、平安朝以来、京都の貴族文化では自明に通じていた習しそのものだったのだ。『能ある鷹は爪を隠す』というような諺は、よく日本の文化的伝統について射当てている。
人間は秘密というのを、むしろ無意味に持つものである。秘密のない人生とは、色事、恋愛の条件をはじめ、ゲームのない人生であり、退屈な人生である。それは貴族の条件ではない。秘密がエロスの条件である。秘密の実在の自明性、無根拠性、ゲーム性というのが、日本の文化的な思考の重要な要素であった。日本の生来で、天然のポストモダニズム的な性質、あるいはスノビズム的な文化ゲームの体質というのを示している。秘密というのは、そこに意味があるから秘密があるのではない。最初からそれは、日本の伝統的貴族文化においては、ゲームのための手段として割り切られた方法論だった。
室町時代の貴族文化とは、時代の前後関係として、ポストモダン的性質を既に成立させていた。鎌倉時代に仏教を通じて民衆的にも派生した観念とは、末法思想の強迫観念であったが、そのような世の末というのは結局到来しなかった。世界は終焉しなかったが、京都の貴族文化において、それは歴史以後という形で、パトロネージにも保護されたある種無重力性の享楽的文化として栄えた。それを示すのが、世阿弥の理論であり、世阿弥の後には千利休の茶道が非歴史的な文化の大成として続くことになる。(桃山時代)
室町時代とは、日本で最初に成立した、ポストモダン的に類似した文化だった。物語においては、鎌倉時代に記された平家物語に示されたような「諸行無常」の仏教的世界観が、室町時代に至っては、世界が無常であるからこその、ポストモダン的な享楽と文化的ゲームの認識へと至った。そして理論的に稠密な芸術の研究が実った。
例えば、現代的な文章の文体としても、蓮実重彦の文体とは、密教的な伝統を継承している要素がある。もちろん密教的な伝授の形式に拘る事とは、日本における貴族的に伝承されてきた物事の形式について、貴重な希少性として受け継ごうとするものであり、レスペクトを持つ姿勢そのものである。これがフランス人であれば、ジャック・ラカンの文体が、密教的な意識を引きずるものである。フランス現代思想における密教的文体とは、そのままドゥルーズ、ガタリ、デリダにまで続いている。そのネガティブな表現の系譜に対する自己言及性として、デリダにおける否定神学批判が示されている理由は簡単である。
それは日本の密教と同様の系譜が、やはりヨーロッパにも、フランスという国にもあるのだろうということである。日本史において、密教と顕教の後に来た仏教の折衷的な体制とは、「顕密体制」と呼ばれているものである。この顕密体制を完成したものが要するに日蓮であるとか、色々日本史的展開とはあるのだが。そして現代思想の文体において、顕密体制がいい意味でも悪い意味でも噴出して絡まりあっている、踏みしめるのにはどうしても躊躇してしまう文の塊というのが、ジジェクの文章であることは、特に説明を待つまでもないだろう。