愛と幻想の日本史とその音楽的書き換えの現場
『Endless Rain』という曲について類似の曲を連想するとするなら、それはガンズ・アンド・ローゼズの『November Rain』だろう。しかし以前にこのブログで紹介したこともあるように、ガンズのノウヴェンバーレインとは最初に80年代の段階で作られていた時にはアコースティックギターのアンサンブルで作られた楽曲であって、ヒット曲となったピアノとオーケストラを入れたヴァージョンとは91年のアルバムで発表されてる曲である。それに対してX-JAPANのエンドレスレインとは、89年で既にメジャーのアルバムに収録されているもので、この二曲の間に類似し、模倣的な要素があるとしても、それはガンズの方がエックスの曲の影響を受けて作ったのだ。つまりエックスの曲とは、そのオリジナリティにおいても充分に優れているし世界市場に匹敵するものである。
YOSHIKIとは、X-JAPANのバンドにおいて、ピアノをベースに置いた楽曲の基本的な翻案と、ドラムスのパートを担当している。YOSHIKIの性質の持つ女性的な側面においては、ピアノが受け持ち、また彼の持つ男性的側面においてはドラムスの激しい演奏が表現するというように、そこではYOSHIKIという不思議なパーソナリティが奏でる両性具有性が表現されている。
YOSHIKIのドラムとは、かつてロック史的にあったあらゆるドラムプレイの形と比べても、最も激しいドラミングの部類に入る。荒ぶる噴出するような異様な叩き方をするものだ。スピードが速くそのまま一気に最後まで行ってしまう。その叩き方とは死に切迫するものがある。エックスのセンスとは、死に何処までも近づくことによって生の臨界を際立たせるものである。死のイメージが横に想定されることによって、絶望的なほどに明晰な生のエロスを獲得しようとするものである。
あのドラムの叩き方とは、それまでのロックでは珍しい。ドラムが余りにも目立ちすぎ前面に出ているからだ。普通ならば歌とメロディをドラムが掻き消してしまう。YOSHIKIのドラムの特徴とは、最初からいきなり直接的なハイテンションで入るダブルバスドラムの連打である。あの叩き方は有り得ない。まずあの入り方では、楽曲の基調的な音調がドラムの煩さで失われてしまうということで、プロデューサーの立場から必ずダメ出しが為されたことだろう。ドラマーの自己顕示欲ということで単純に排除されてしまう。
これはエックスにおいて、楽曲を作っている責任者がヨシキであったから可能になったものだ。エックスの構成する楽曲と似た構造を持つものとしては、前提として、オジー・オズボーンの曲があげられる。オジーオズボーンの持つセンス、激しいメタルビートの爽快なグルーブ感からメロディアスなラインまで、エックスの影響的な前提としては、オジーの持つオカルト的で演劇的な世界像まで含めて、まずオジー・オズボーンの音楽の構成が位置づけられる。
アルバム『BLUE BLOOD』において、オープニングの「ANTHEM」ではクラシックな導入の仕方をした後に、「ブルーブラッド」の曲の激しい嵐のようなイントロが入るとき、あのイントロの作り方とは特徴的なものであって、オジーオズボーンの『MIRACLE MAN』に類似している。しかしそこでダブルバスの連打がいきなり性急に入ってくるということは、オジーの曲でも有り得なかった事態である。普通ならば、あのドラミングは楽曲を破壊してしまうものとして、プロデューサーの手によってストップがかけられるような類のものである。しかしヨシキはそこを無理矢理に、楽曲として成立させてしまった。タテノリの性急なバスドラムの無前提な連打がいきなり最初から入り、それで曲が成立してしまう。それがエックスのヒステリックでスキゾフレニーな独特のセンスとして確立してしまった。
マイナーだったハードコア系パンクの世界では、性急でいきなりのタテノリビートとは存在していた。それをメロディアスでクラシカルな旋律と両立させ、普通に通用するヒット曲にしてしまったところが、ヨシキの凄い所であったわけだ。結局、エックスの楽曲とは新しい前例をそのリズムパターンにおいて打ち立てた。以後はああいう楽曲のパターンもありだということを、音楽業界もリスナーも理解できた。
ここでは、エックスの前提になるものとして、日本のロックとは全く関係ない。日本のロック史的な脈絡から云えば、エックスの音楽とは突然変異的に出てきた奇妙な登場である。たぶんヨシキという人は、ロックについて80年代のヘヴィメタル以外殆ど聞いたことがないのではなかろうか。ヨシキの音楽的な素養とは殆どがクラシックなのである。そうでなければ他は普通の凡庸な歌謡曲である。
しかしその美学の中核にあるものとは、わりと日本人の感性にとっては既に見慣れたものであって、三島由紀夫の演じた強烈なエロスの志向性と、エロスの獲得のため逆説的に演じられる死に切迫的接近することへの憧憬が含有されている。
無根拠に、ヒステリックに、意味不明に死に接近することによって、エロスの強度に明晰性を与えようとするもの。ステージ上で、録音されたソースの世界で、それは『花ざかりの森』を実現し、現前化させ開花させることを切望するものである。現前した『花ざかりの森』を掻い潜り、乱立したエロスの束を貪り尽くした後には、そこで次のエロスを定立させる為の存在論的意識として、彼らにとって『憂国』の意識が嘱望されることだろう。すべてはこの今の存在論的強度のために、XとYOSHIKIにとって虚構の舞台演出が要請されている。
エックスによって追求された死の世界への接近から、ヨシキはいつしか戻ってきた。ヨシキの表現とは生の世界へと回帰していた。時の総理であった小泉純一郎の支持もヨシキは勝ち得た。ヨシキにとって死から生への展開とはどのようなものとなったことだろう。ヨシキは、ピアノを手にしながら権力の中心へと接近していった。それは暗い世界を掻い潜ってきた上での、公式な世界の超越的なポイントまで手を届かせるリーチである。日本史はこのエックス的な冒険の過程を経て、美術史的にそこで再び書き直される。
雨の降りすさぶ冷たい夜に、大都市の中心では厳粛なセレモニーが執り行われている。天皇陛下の祝賀式でYOSHIKIが奉祝曲を献上している瞬間である。(1999年)
この冷たい夜の中心に、ヨシキの火が灯る。広大な空の冷徹な重さを受け止めながら、しかし空の神には逆らわず、冷徹にその重量を受け止め、厳粛に大都市と国家の宿命の現在を憂いとして見据え、冷静な眼差しによってオーケストラの演奏が目配せされ動き出す。演奏がはじまるがそれを見守っている眼差しとは、この冷たい巨大な空の下で何処までも深い愛を湛える、それもまた揺ぎ無い愛の女性的な眼差しの存在に見える。この夜に空から降りてきたものとは、紛うことなき日本の歴史そのものである。
本当は日本史というのは常にこのようにして書き換えられてきた。それが単純な事実である。この書き換えの儀式的なポイントのそれぞれが、日本史そのものだったのだ。見ている者達は、改めてその自分では経験しなかった過去の、古から連綿とした繋がりの流れを暗闇の空に想起し、目に見えない遣り方でもって投影することだろう。
ヘヴィメタルという八岐大蛇の背に乗って混沌とし荒ぶる闇の世界から帰ってきた、一個の繊細な身体に宿る精神が、再び国家という大きな家についてその存在論的位相を、芸術的な遣り方でもって、そこで再定義し、位相を与えなおす。日本の国家とは、想えば昔からこのように転回してきただけなのであり、日本の美術とは、このように書き換えられてきた。この光景とは、何も特に驚くべきものではない。YOSHIKIの存在とはこのようにして日本美術史のメジャーの中心に立ったのだ。
この光景に感動し圧倒されながらも、しかしテレビ放映のヴィジョンから、我々がこちら側の世界において、このメタな光線の下側から、視線の死角によって読み取れるものとは何だろうか?我々にも、この光景に幻惑されながら、しかしまだ逃走線が残っていないというわけではないのだ。そこに気づくことの方がむしろ現実的に芸術的なテクニックを必要とするのかもしれないが。冷たい大きな夜の向こう側であり、日本史自体を再定義しながら、更にそれを相対化することを可能にしうる、暗闇のむしろ手前にあるところの、簡単で単純な余白なのだ。
この凡庸な余白の存在に気づくことの方が、エックスとジャパンによって体系化された新しい力学世界のヴィジョンよりも、より簡潔に物と事の移動を可能にするものだろう。確実に、このテレビジョンの夜の区切りには、単純な外部があることを知っている。テレビの区切り方に惑わされないで済む、それはいとも簡単な方法であり、我々の現実的な生き方であるはずだ。