源氏物語からX-JAPANまで−『Endless Rain』
X-JAPANの示しているセンスとは奇妙なもののように見える。この奇妙さが表現し訴えているものとは何なのだろうか。時々その見掛の姿は不思議さを催すかもしれない。しかしよく分析的に見てみれば、日本人の歴史にとって、センスにとって、あの演出あの化粧とは別に不思議なものではないことに気づくはずだ。あのセンスとは、日本人にとってとても見慣れたものなのだ。だからこそエックスの支持とは、日本でとても根強い。
X-JAPANのメジャーシーンにおける最初のアルバム、89年に出た『BLUE BLOOD』は確かに傑作アルバムに仕上がっている。日本のロックとして何か独特の歴史的結晶が、ハードロックのうちに形式美として根ざしたことが、あの独特の見栄えを生んだのだろう。ロックがあの形に綜合化していることは、一方では何かのあの世界への近寄り難さを生じさせているのだろうし、もう一方では強烈なる熱狂的な求心力を生んでいる。X-JAPANという現象にとって、あのファナティックな情熱とは何なのだろう。
先日テレビのニュース番組で、YOSHIKIが自分の生い立ちを振り返り紹介する特集があった。X-JAPANの生まれてきた母体とは千葉の館山にある。館山で呉服屋の長男として、リーダーのYOSHIKIは生まれた。あのパーソナリティには謎が多く、幾分変わってる人のように見える人物だが、彼を理解する手掛かりが示されていた。
地元の小学校に通いながら高学年のとき、父親が自殺している。クラブの帰りに家に帰ってきたヨシキが目撃したのは、父親が白い布を被って床に寝かされている姿であり、そのときの不思議な思いをヨシキは語っていた。なんで?とどうしてもその出来事が彼には理解できなかった。どうして?どうして?と半狂乱になって彼は泣き喚き続け、周囲の人に抑え付けられたという。絶対に癒されない傷というのがあるんだ。そう彼は繰り返し語っていた。
ヨシキは館山で、地元の幼馴染のトシをボーカルにしてバンドを組んだ。それがエックスというバンドの始まりにあたる。ヨシキのあの奇妙なパーソナリティにエックスというバンドの核があるといってよい。奇妙な繊細さ、奇妙な不安定性がヘヴィメタルの形式に包まって放出されてくる。エックスの音楽の頑なな硬さを放出させ続けるものとは、あの内面にある奇妙な不安定性であり、奇妙な脆さである。
エックスのファンに熱狂的な女性ファンが多いのは、その硬直する勃起性の根元にあるのが、どこまでも繊細で柔らかなヴァルネラビリティであることを理解してのことであり、その繊細さ故の過激さと暴力性が見え隠れしているのを了解しているから、エックスに対する女性のあの熱狂的な支持がある。エックスの演出とは、まるで少女マンガの世界からそのまま出て来たようなメイクに井出達で現れる。そこだけの幻想的世界像が完結されているように自己演出されている。
そのガラス細工のような脆さの見え隠れと、虚構の演出を借りて迸る情念の息吹と、嵐のように巨大で歪んだ音の激しさと、鉄拳の如き性急で容赦ないドラムビートと、巻き上がるように彼らのライブは熱狂を吸収し続ける。暴力と残酷と愛とエロスの乱舞する一大幻想ショーに、彼らのライブとはなっている。
この奇妙な激しさの熱狂を生み出すバンドの起源とは何なのだろうか。基底にあるのは少女マンガ的メンタリティであるようにも見えるし、しかしそこに対応する表現の形とは、徹底的な激しさと暴力性である。熱狂の勢いに乗ってすべてを忘れさせてしまおうというばかりの、強烈な忘我の体験を、まさにエクスタシーの実現をすべく、彼らはライブ会場ごと一丸となって共通の目的に到達せんとするのだ。
X-JAPANの成功の鍵とは、やはりヨシキの計算高さであり頭脳的な戦略性にある。しかし不思議なのは、ヨシキの飽くなき向上心なのだ。あの上昇志向への渇望とはどこから来るのかということである。エックスのセンスとは、すぐれて日本的なセンスである。影響系としては80年代のヘヴィメタルシーンの流れであるが、メタルロックについて、エックスが載せた旋律とは、日本的なメロディのラインであり、フレーズの反復であり、そして表現されたドロドロとした情念にしても、余りに日本的である。
巨大なるヒステリーの儀式。エックスのライブの現象を見て、日本的な土着性を感じる人も多いはずだが、あの土着的な日本人的な執念の模様をすべて省みた上でも、それでもやはり日本にとっての史的な美意識の巨大な流れの捻りとは、現代的な形態としてエックスの物であり、エックスによって日本美術的なある書き換えがそこで行われているのだという事情を見逃さずにはおれないのだ。日本の美的センスにおいて、ある必然的な綜合と放出が、エックスの祭という形を借りてそこでは起きている。X-JAPANの音楽は海外の市場にも出ているが、外国人がそれを見て、やはりそこに日本的な美学性を感じずにはいられない、日本とは何かという奇妙な謎解きの鍵が、エックスの音楽の中には確かに眠っているのだ。
ヨシキの美意識、ヨシキの美学の中に、呉服屋の倅として育ち、クラシックピアノを学ぶことによって育った彼だが、源氏物語の主人公としてあった、光源氏のように貴種流離譚の形によって、生の興亡を極めようとする、日本人の中に永らえてきた粋の美意識を見出さずにはいられない。基本的に、日本人の文学的美意識とは、一部ではヨシキの形のようなものをずっと養ってきたのだ。そういう意味では、ヨシキのセンスの実質的な前提にあるものとは、日本のロックでは全くなく、三島由紀夫の文学性である。
エレクトラとして、三島由紀夫的な屹立の美学が、無意識的な形で反復されたとき、それは現代的な意味で、文学の世界ではなく、X-JAPANの姿かたちを纏って反復されたのだ。ヨシキのセンスほど、三島的なものを忠実になぞったものもない。文学としては三島の反復とはもはや現代的に明らかに不可能となったものを、彼らはロックの形式においてその幻想性と虚構の力を最大限利用し実現したのだ。
YOSHIKIとはその最も正当な嫡子である。日本の貴族的な自意識の究まりとは、源氏物語から三島由紀夫を経て、センスとしてのX-JAPANにまで接続している。それはあくまでも受難としての宿命を身に受け、絶対精神に到達することの出来る稀れ人としての、貴種であり貴族的意識である。X-JAPANの面白さの起源とは、このように紐解いていけば余りに日本文学的なものの基準である。