ファリックマザーからファリックガールまで

映画『プラネットテラー』において、一個のダンサーだったチェリー・ダーリンが、失った片足の部分にマシンガンを埋め込まれることによって、ファルスを持った女性として生まれ変わるというストーリーのことを考えて、そういえば斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』という本が、やはり同様のテーマを扱った論考であったことを思い出した。ファルスを持った女性の像とは、ラカンによってファルスを持った母親−ファリックマザーとして示されているが、ファリックマザーのストーリーを一般的に紐解いたとき、それは権威を持って共同体を治める女性のイメージなどを示すが、それが特徴的な神話作用を帯びるとき多くの場合、外傷性の過去を有していると云う事がわかる。何かの外傷的なストーリーが転じて−レイプされた過去など、その穴を埋めるものとしてのファルス的な象徴性を、何かの特徴的な形象を媒介にし、女性がイメージし、承認されるようになって、ファリックマザーのストーリーが出来あがる。

「プラネットテラー」の場合も全く同様に、チェリーダーリンは元々しがない田舎のダンサーだったわけであり、ストリップバーとさして変わりないようなクラブでダンスをしながら、赤いビキニのイメージを纏い妖艶な踊りをしているが、彼女の踊りの特徴とは、踊っているうちに最後は彼女が泣いているように崩れ落ちてしまうような感じで、舞台裏ではその事をマネージャーに注意されながら、「私、もうやめるわ」と言い、「いつもそう言ってる」と返されると、「今度は本気」といい、ダンサーをやめてスタンダップコメディアンになろうと心に決めている。この現状に満たされないフラストレーションを慢性化し、自己の過剰を未来への残り少ない、儚い夢に託そうとしていたチェリーは、ゾンビの襲撃を受けて、突然片足を失ってしまう。ダンサーが足を失うとは決定的な損失であり、彼女は自分の儚い夢までも一気に奪われたことになる。スタンダップコメディアンになる積りが、立ち上がることもできなくなってしまったと、自己卑下してジョークを語っている。病院がゾンビに襲撃されている中で、彼女は町の解体工だったエルレイに助けだされ、ゾンビへのレジスタンスに加わるが、失った片足にはマシンガンを組み込まれ、これがサイボーグ的なチェリーの新しい機能として生まれ変わる。

マシンガンレッグとは、女性のナルシズム的な像にとって、欠如の中に人工的に埋め込まれた、戦闘的なシンボルとしての機械的な新しいファルスの役割を担う。エルレイは途中で死ぬので、抵抗者集団の中心とは、結果チェリーに移行され、ファルスを獲得した女性が新しい理想郷を築くという幻想的なイメージで映画は終わる。チェリーの獲得したサイボーグ的なファルスとは、このように外傷的な物語が神話化されるものである。この神話の媒介になったのは、社会における終末論的なゾンビの襲撃であり、機械としてのファルスを彼女に埋め込んだものとは、最も男らしさを失わずに死んだ男としての、エルレイである。女性の戦闘的な身体化、美的造形のファルス化とは、このような神話によって示されている。チェリーダーリンのイメージとは、エロチックであり、最もクールであり、そして逞しく生き抜く、生を肯定するための強い女性の身体像として定立される。身体への理念的で力動的な造形を性的に究めるものとして、チェリーのサイボーグ的な合成身体は出来上がっている。彼女のこの強さを表現するためには、外傷的な過去を物語化しなければならい必然性があった。チェリーは、最初は普通の、傷つきやすく、若さを無駄に使い果たし、欲求不満を抱えた女の子だったのであり、そんな普通の女の子に何か神話的なストーリーが加算されれば、こんなに強いファルス的な女性像として生まれ変わることが出来るのだという幻想で、映画館に訪れた観客を興奮させることができる。ファリックマザーの一般的な物語としても、このようにプラネットテラーとは条件を満たしているものだ。

こういったファリックマザーの物語に対して、斎藤環が示しているのは、ファリックガールというシンボルの位相であり、ファリックガールの場合、特徴的なのは、それは特に外傷的な物語過去を持たないことにあるというのだ。ファリックマザーもファリックガールも、ともに体現するものとはヒステリーである。ヒステリー的な身体化とは性的な強度に関係している。ファリックマザーの発するヒステリーには、外傷性−自分がレイプされたなどという根拠を持っているが、ファリックガールの場合、そのヒステリーとは、無根拠であり、空虚である。ヒステリー化とは、女性にとって性的魅力の条件でもある。攻撃的な女性に魅了されうるのは、それがヒステリー化によって欲望を尖鋭化させる姿を示せるからである。ヒステリーの攻撃とは、オルガズムの等価物である。斎藤環によれば、こういったファリックガールの像に該当するものとは、ナウシカとかエヴァンゲリオン綾波レイだという話である。ファリックマザーが、ファルスを持つ、のに対して、ファリックガールとは、ファルスに同一化する。ヒステリーが症状として持つ意味とは、それによって象徴界と主体の関係を維持させようというものであり、従って、症状そのものが、ヒステリーにあっては存在と同様の意味を帯びる。女性とファルスの関係、それが女性のファルス化として表現されるとき、性的魅力としての攻撃性がヒステリーとして表徴される在り方である。

プラネットテラーでいえば、チェリー・ダーリンによって、外傷的な根拠として示された人工的ファルスの導入は、彼女に率いられることによって生まれた新しい共同体において、そこには医者である夫の暴力に耐えかねながら隠れレズビアンでいた女性の、銃を手に携えた解放のイメージから、いつも喧嘩ばかりしていた謎の双子の攻撃的なボディコンギャルの存在といったように、彼女の元に従ってきた有象無象の人々であり−思えば、男らしかったはずの男達とは、みんなゾンビとの戦いで死んでしまっているのだ−、性的オルガズムとしてのヒステリー化は何時何処でも可能で、限りなくヴァーチャルに無根拠に発散され続けるような、南の海に面した理想郷の姿である。女性のファルス化とは、このようにして完成されて、銃を持ったファリックな女性によって守られるその場所とは、ある種の理想郷であるのだが、しかし、ここで疑問が一つ生じるのだ。

常に間歇的に頻発するヒステリー化の攻撃性、暴力性について、そこでそれをやられる側になってくれる悪役とは、どこに居てくれるのだろうか?ゾンビがいつまでも出現してくれれば話は別なのだが。そもそもヒステリーの無根拠化とは、限りなく無根拠で無意味な悪役側の存在も要請し続けるはずである。このような構造を発見すれば、ただちにプラネットテラーの示した理想郷の姿とは、その虚構をあらわにし崩壊するだろう。それがプラネットテラーにおける最大の矛盾点なのだ。(というか最初から明らかに極端に引っ張りすぎた虚構映画だったので、その論理的亀裂がここではっきりするということか。)ファリックガールを崇拝する集団性とは、ここで終わるのではないだろうか。カルト的な共同体の強固さには、常に仮想敵、仮想悪の存在を作り続ける必要があるのだが、それはエネルギーをヒステリー的に外部放出するためである。無根拠なヒステリーが消滅しうるとき、はじめて我々の社会も無根拠な悪役をでっち上げる為の茶番からも自由になれる。しかし、無根拠なヒステリー化(ヒステリーの無根拠性)が、性的原理の真理としては最も本質的であり、止むを得ないというならば、それもまた人間の悲しい宿命の事である。