映画を巡る脳と身体の闘い

グラインドハウス』というタイトルで、本来二本立て用の上映として設定されていた『デスプルーフ』と『プラネットテラー』の二本の映画には、結局どのようなテーマが共有されていたのだろうか。一つ明らかなのは、グラインドハウスという場所の性質として、アメリカでは日本の名画座のように、場末のような所で、回数遅れの映画や、B級映画、低予算で制作された他に行き場所のないような映画、マイナーな映画やインディーズの映画を、かける小屋としても相当いい加減な体制で上映していた、今ではアメリカでももう失われているという映画館のことを指すという。日本の名画座の記憶を遡ってみたところ、80年代までは確かにこういった名画座は街で、文化として機能していただろう。レンタルビデオの普及が起きるのが80年代後半だったが、これら名画座の文化とは、レンタルビデオの文化と入れ替わっていくことになったわけだ。その結果、そういうマイナーな小さな箱は消えていった。アメリカでも事情は同じはずだ。小さないい加減な劇場のイメージとして、何か雑然としていてボロくて汚いような小屋のイメージを、映画「グラインドハウス」では、映像の中に再現している。古ぼけて、使い回されて、抜けていて、汚いようなイメージである。

それでも記憶を振り返れば、日本の名画座というのは、なんか安くて小さくてもそれなりに心が篭った小屋であり、特にそれが汚かったというイメージは薄いのだが、グラインドハウスと題された映像のイメージを見る限り、アメリカのこういう小屋とは、日本のものよりずっといい加減で荒れていて汚かったのではないかという印象さえ受ける。実際に行った事は無いので正確なところはよくわからないが、このイメージの汚らしさというのは、日本の小屋で言えば、名画座でも、ポルノ映画を専門でかけていた場末の劇場のイメージに近い。普通に映画を名画としてかける劇場は、小さい割にはキレイで頑張っていたような気がするが、ポルノの専門館とは、確かにこんな感じですごいアレルギーを感じさせたイメージがある。もっともアメリカには、アメリカのポルノ映画館があったわけで、実際のグラインドハウスがどのレベルのものであったのかを語るのは、行った事無いのでよくわからないのだが。タランティーノとロドリゲスが人工的に再現した、古ぼけた映像のぼやけたイメージは、日本にも同様の文化があったことを思い出させる。

グラインドハウスという一見汚い、泥臭いイメージにおいて、しかしタランティーノとロドリゲスが集客の対象として想定しているものとは、女性の観客であることも明らかだろう。回想的な場所として設定された泥臭さの中に、是非とも若い女性、ワイルドで好奇心に溢れ攻撃的な性的魅力の漲った女性達に、この映画を見て欲しいと設定されている。現実のグラインドハウスの客層がどうだったのかは分からないが、このアンバランスさが、映画グラインドハウスを奇妙に盛り立てる設定となっている。思い切りワイルドで泥臭い場所へと、フェロモン発散する攻撃的な女性達に訪れて欲しいという設定である。よって二本の作品とは、ガールズムーヴィーとしても解釈可能なように、性的に充溢した女性達が中心に据えられた映画に出来上がっている。映画の吸収しうる性的で攻撃的なエネルギーを最大限引き受けられるように、登場人物たちは、性的な動機に突き動かされ、日常的な型には絶対溢れ出してしまう過剰なエネルギーを振りまきながら、持て余している自己の過剰を徹底的に身体化するエロスによって享楽している者達の存在が描き出される。

映画「グラインドハウス」のテーマとは、性的身体への過剰な受肉化、映像へ向けての溢れ出んばかりの具現化になっているのだ。映画グラインドハウスに共有されているテーマとは、このように映画の身体化を徹底化することにあるといえる。映画とは、具体的には何処まで身体化することが可能なのだろうか?この可能性へと向けて極限までの過剰な試みが、タランティーノとロドリゲスによって競うように試みられているわけである。

映画の身体化とは、実は根本的には不可能なものである。それはフィルムにとって原理的に不可能である。原理的に不可能なものを、映画における想像界の過剰な隆起とは、有り得るものであるかのように、観客に錯覚させてしまうわけである。この過剰な錯覚に二人の映画監督は、どこまでも取り憑かれているといえる。映画の過剰なる身体化とは、結果として何かの弊害、害悪をも呼び起こすものであるのだ。ロドリゲスの作品『プラネットテラー』において、登場人物の過剰な性的身体化の極に発生し、相補的に産み落とされているものとは、ゾンビの存在である。過剰な性的身体化とは、もう一方の極にはゾンビの存在を生み出すという弊害を伴う。フィルムにおける、人間の過剰な身体化とは、必ずや錯誤を産むものである。タランティーノが『デスプルーフ』で示すそのような錯誤の形態とは、老いたスタントマンの男に発生している狂気である。

映画における過剰な身体化とは、映画における脳的な次元と対立しているのである。映画とは、人間の身体を表現しているように見えながら、そこで本当に機能しているのは、イメージにおける脳的な統轄のメカニズムである。映画の中には、本当は身体はない。それらは薄っぺらいスクリーン、空虚な表層の上に、光学上の効果によって生まれている虚構である。しかし観ている者は、スクリーン上の出来事を、本物の身体として、思い込みがちになるものである。表層上の光学的な効果の束が、映画においては、常に本物の身体性と錯覚されうるのだ。映画が表現しているものが、直接的な身体なのか、あるいは間接的な論理的連携の効果としての脳の出来事なのか、この二つの項の間では、常に葛藤が起こっているのだ。タランティーノの『デスプルーフ』で表現されているものとは、この表層的なイメージを媒介にして、脳と身体の間に生じている葛藤であり、映画における脳的次元と身体的次元の闘争なのだ。