『デスプルーフ』で、身体は脳に勝利したのか?

映画『デスプルーフ』は、存在に対して過剰な身体化を働きかける映画である。この作品において、何故登場人物がかくも身体化に、形象化として彫を入れ刻みを入れる身体のエロスに取り憑かれているのだろう。一つには、登場人物、それは女性の登場人物それぞれのキャラクターにおける若さの問題が考えられる。彼女達は若いが故に、身体的な過剰を持て余している。過剰なフェロモンを撒き散らしつつも、何か退屈している。彼女達の退屈さとは、その過剰なお喋りの在り方によって示されている。若さとエネルギーは過剰であるが故に、その脇ではそれらが無駄に費やされ流されていく勿体無さも理解されるが、ある平和さの中で、漠然とした大きな空虚を取り囲みつつも、アメリカの都市の郊外のような場所で、若い女達は、集い、車に乗り、音楽の話をし、男の話をし、セックスの話をし、仕事の話をし、夜にはクラブに集い、踊り、酒を飲み、酔っ払い、そのようにして時間は漫然として過ぎている。

退屈さの中で、身体を享楽する様とは、時に無根拠に選択された過激な試練のゲームを見せる。映画ヴァニシングポイントで使われた同型の車を探し当てて、そこのボンネットに身体を括りつけて車を走らせ風を浴びるゲームとは、全く無根拠に選択された、女達の享楽的なゲームである。そうすることに何の意味があるのかは不明だが、白い70年型アメリカ車のボンネットに身体を結わい付ける姿は、身体を十字架にかけているようなイメージもある。何の意味もなく、身体を十字架的な試練に捧げてみて、そのスリルを楽しんでいるといった様子だ。無根拠なヒステリー化の極みともいえる、死の十字架ゲームに女達が、人知れぬ田舎のような場所で享楽している。

身体をエロス的に享楽する何かの体験、何かのゲームを、女達は退屈な日常性の最中にて探している。身体が強度によって屹立し研ぎ澄まされる体験があるならば、そこに何の根拠も動機もいらないのだ。ただ意味もなく、自分の身体を感じたいと、女達は志向している、漠然とした模索をしている。退屈そうなギャル達は、大型のセダンに乗って町を徘徊する時、何故その自慢の脚を、車の窓から外に出し、後ろのシートに寝そべりながら、他愛無い話に現を抜かしているのだろうか。仲間の運転する車のシートに寝転びながら足を窓から出して大仰にしている彼女達の仕種とは、余りに無防備である。この大胆な無防備さは、ストーカーをする狂気を秘めた男にとって、付け入る為の隙を生んだ。走り去っていく白い大型セダンの窓からスラリと飛び出た女の長い足。これも何かの自慢の儀式なのだろうか?

身体化とエロスの享楽。それは夜のクラブで、懐かしいソウルミュージックをジュークボックスでかける空間で、女がこれ見よがしに、ボディコンシャスな踊りをして見せる中で、究められる。過剰なる身体化とエロティシズムの希求とは、映画のフィルムを占領にかかるようだ。自己愛的な身体化の過剰が、終いには自分自身を痛めつけはじめるように、映画のフィルムにも、人工的な傷や飛びが、刻み付けられている。イメージに愛が篭るほど、映画のフィルム自体にも損傷が人工的に加えられているようだ。しかし、これら過剰な身体化とは、映画的全体性にとって何処かで無理をうんでいるのも明らかである。過剰な身体化とは、見えない空間のどこか一部分を抑圧もするのだろうが、身体化が帝国の様な進行で覆い尽くそうとする有様とは、どこかにその反作用を、反動を生んでいたのだ。それは映画に示される空間にとって、無意識の進行でもある。過剰な身体化の進行と覆い尽くしが、反作用として狂気の進行を生んでいる。若さ、エロス、享楽に対する復讐心も、陰では密かに育んでいた。

カートラッセルによって登場する老いたスタントマンの狂気も、根本的には不明瞭な情念である。たぶん何物かの復讐心が、倒錯的に若い女への攻撃をうむのだろうが、意図不明の復讐心であり狂気であったとしても、映画の構成にとっては、若い女達の退屈で持て余し垂れ流していた時間にとっては、力学的な均衡を生む、正確に合致した、闇の立場からの攻勢である。このカートラッセルの狂気によって、若い女達の退屈が対抗されなかったら、世界はとても全体としてのバランスを再現できないくらいだから。映画にとって、最初に進行した身体化の過剰が、脳的な綜合の立場からは不均衡をうんでいたのである。

ある種の人々にとっては、出来事における脳の次元というのが気が付かれていない。デスプルーフに登場する女達にとっても、彼女達はその若さゆえに、出来事を俯瞰的に総括する部分としての脳的なものの存在を忘れているのだ。カートラッセルの拘りとは、この脳的な出来事の把握にある。脳の次元の存在を啓蒙するためにこそ、カートラッセルは女達に近づいていくといった意味もあるだろう。女達のグループが為している関係性に対して、カートラッセルは、そこを脳的な全体把握として綜合する裏の連結の網目を企んでいる。物事の表面には裏から忍び寄ることができることを、女達に思い知らせてやろうとしている。

最終的にヒステリー的な享楽とは、カースタントとして実行される。文字通り女達は死の恐怖と遭遇させられることによって、それまで存在の隙間に潜んでいた狂気に直面する。今、過剰すぎる身体化の享楽は、脳の立場によって復讐されようとしているのだ。この、現世に復讐する脳の立場とは、大抵の場合、男にとっても女にとっても、老いによって訪れるものだ。カートラッセルは既にその老いによって世界を眺める境地、末期の眼をもっている。女達はまだそれを知らない。女達にとって身体と享楽への信仰はまだ単純なものである。カートラッセル=脳の立場=末期的視点の享楽とは、復讐ゲームに成功するかにみえて、最後にそれは逆転する。

結果、哀れにも捕らえられたカートラッセルの頭脳とは、どうなるのか?脳の過剰=ストーカーの狂気とは、逞しい女達のフォーメーション=身体の立場によって、復讐され返して、見事な遣り方でグシャリと潰されることになる。かくして、アメリカ人にとって、身体の立場による脳への復讐とは、映画的に敢行されたのだ。この映像こそがまさに、アメリカ人的な性質として心底で望んでいた、身体主義的な征服感であったのではないか。身体が、脳に復讐をするプロセスを、映画によって実現する。しかし、本当は、映画という物質的客体で機械的な媒体の持つ原理性から言って、そこで身体が脳に勝てるはずもない。アメリカ人はそのことについても、よく自覚的である。だからこそ、身体にとって、脳とは常に宿命的なライバルであるわけであって、脳と身体を巡る闘争とは、ずっとアメリカ人の映画的テーマとなっているのである。